安易な救いと過剰な期待

2006-04-01 02:04:11 | 感想など
以前kanonについての批判的文章(「kanonを斬る」)を書いた時、そこに出てくる都合の良い奇跡=「安易な救い」に対し、好意的な反応をするプレイヤーが多かったことへの疑問を提示した(もっとも、今まで見た色々なレビューの内容を総合した印象であって、全体的な反応がどうだったかまではわからない)。

俺はあの奇跡を見て「ギャグではなしにこんな内容を出してくるなんて、プレイヤーをなめてんのかコラ」と怒ったクチだ。だから、あれで感動したという人間には「救われりゃ何でもいーんかい」と呆れたもんだった(現実に人が救われるというなら、結果が重要だから、安易だろうと何だろうと構わないと思うけどね。虚構の中まで求めるとあっちゃあいかがなもんでしょうか)。

まあイラつくことの多い世の中だし、うんざりすることもしんどくなることもあらあな。けど、安易な救いが前提として肯定され、希求されるなら、簡単に救いが得られると思う人間が増えてくんじゃないだろうか?そういった人間は、救いをもたらしてくれる存在として、おそらく以前よりも他者に期待するようになるだろう。しかし人間は「共感」することなどできない存在だから、結局その期待は裏切られることになる(その理由は過去ログ「理解と共感」で書いた)。そして期待が過剰であればあるほど、失望も大きい。

そうすると、ささいなことにもブーたれ、他人のせいにばかりしている人間が出来上がりってところか。そんな寄っかかるだけの奴にゃあ「他人に期待する自分自身は、どれほどのことをやってるのか?」つー内省の意識もどんだけ芽生えるか疑わしいわけで…ゆえに研鑽しようって契機も減っていくだろう。

そんなこと考えてっと、アニメ「妄想代理人」の第一話で、どこでもケータイいじりながら不平不満を垂れ流してる人間の姿はそんな人間たちの集合を思わせてニヤリとするものがある(人によってはぞっとするかも)。また少年バットはある意味「救い」だったりするわけで、安易な救いに対する強烈なアンチテーゼになっている(どこまで意識してやってるかはわからんけど)。あと、パラパラと立ち読みしただけながら、『日本はなぜ諍いの多い国になったのか~「マナー神経症」の時代~』はそういう「他人への不平不満」を扱ったものとしておもしろいかもしれない。

にしても、内省する人間が減んなきゃいいんだけどねえ…
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