援助交際への批判の視点について

2006-03-31 22:05:32 | 感想など
以前「援助交際:大人の積極的関わり」において、援助交際への批判の中では買う側へのそれが(私の知り限りで)皆無に近いということを指摘した。


この見方が正しいとすれば、これは非常に奇妙なことだ。買う側がいなければ援助交際(むしろ少女売春というべきか)が成り立たないのは自明の理であるし、しかも買う側の大半は社会人(つまり大人)だからである。とすれば、社会的責任の重さから言って先に買う側から非難するのが道理だろう。


しかし、援助交際を批判的に見ている人々が、「買い手」の存在を無視、ないし等閑視しているとは考えがたい。とすれば、そういう方向性で批判が出ないのには何がしかの意思が働いているのではないか?


例えば、「若者の性の乱れ」を常に考えている人間であるなら、援助交際は格好の材料となる。それゆえ、あくまで売り手の問題がクローズアップされる。また特にマスコミの場合、有力購買層への配慮(はっきり言えばゴマすり)によって買い手への視点が省かれている可能性がある。先に援助交際の買い手の大半が社会人であることを指摘したが、その中には中年も少なからず含まれているだろう。買い手を批判することは、有力な購買層たる彼らを糾弾することになるわけだ。それくらいなら、「最近の若い者は…」という(彼らの考えにお墨付きを与えてくれる)見方を提供した方が彼らは喜ぶ。だからもっぱら売り手のことが問題にされるのだろう。


批判において優先されるべき買い手への批判が、売り手へのそれに比べて非常に少ない(あるいは皆無に近い)のは、以上のような意図・視点が影響していると考えられる。


※マスコミの論調では二次元の少女に萌えたり欲情したりするのを「危険」「下劣」と見なす傾向があるが、それならば現実に少女を買うという行為は、実害があるという点でよりいっそう「危険」で「下劣」なものだと厳しく批判するのが筋というものではないだろうか(それは、少女を集めて売りつけるという犯罪にも繋がっていくのだし、ね)。
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