日本人の宗教(及び宗教意識)について述べる際、たいてい「日本人の宗教的寛容さ」が言及される。これは、いわゆる神仏習合の伝統などに基づいた評価であり、それなりに根拠があるものと言える。しかし一方で、それとは正反対に属するような、しかも歴史的に大きな意義を持つ事象がないがしろにされているのではないか?それは15世紀から始まる浄土真宗の隆盛と、16世紀半ば~17世紀初頭にかけてのキリスト教の急速な広がりである。浄土真宗は、周知のように仏教の一派でありながら「阿弥陀仏以外を拝さず」という教義を持ち(元々はこのような教義はなかったという指摘もある)、「一神教的」仏教と評される。また、キリスト教が一神教であり、本来的に偶像崇拝を禁じていることもよく知られている。とすれば、この二つが広がったのはなぜだろうか?それまで一般的には仏と神を同時に祀っていたとされる。このような伝統を廃してまで(あるいは廃するような)宗派・宗教に傾倒したという事実は看過できないものだと思う。
これについて、考古学系の人と医学系の人(二人とも日本史選択)にそれぞれ質問をした。すると奇しくも同じ答えが帰って来た。それは「下克上という時代の風潮があるのではないか」というものであった。詳しく言えば、下克上という、階層が流動的になっている時代背景が(阿弥陀仏or神の前では)「平等」という観念にシンパシーを覚える要因であったということである。
なるほど非常に興味深い意見である。教義レベルではなく、民衆レベルでどれだけ「平等」というものが認識されていたかということを実証的に研究していく必要はあるが、幕末の新宗教・明治維新の廃仏毀釈・戦後すぐの新宗教乱立といった「時代の流れと宗教」の関係を思うとき、非常に説得力のある意見だと思う。
しかしながら、「宗教的寛容さ」に関連して言うと、汎神論的状況や神々の祭祀を否定する宗教を受け入れていることがより重要である。もちろん、先の「平等」観と同じく、民衆レベルにおいてどれだけ既存の祭祀が否定されたかということは検証を要する。しかしもし、改宗者の一般的傾向が、後世の廃仏毀釈に抵抗した真宗門徒のそれと軌を一にするならば、「宗教的寛容さ」という評価そのもの、あるいはその内実について大きく見解を改めなければならなくなるだろう。それと同時に、そのような傾向が、織田信長始めとする戦国大名たちの勝利・政策によって江戸時代のキリシタン禁制・仏教統制へと繋がっていくという歴史の流れの重要性が理解されることになるだろう。
追記
現在の状況から、日本人は「宗教的に寛容である(あるいはそうでなければならない)」と見ているのだとしたら、それは「回顧による誤謬」と言わなければならないだろう。
これについて、考古学系の人と医学系の人(二人とも日本史選択)にそれぞれ質問をした。すると奇しくも同じ答えが帰って来た。それは「下克上という時代の風潮があるのではないか」というものであった。詳しく言えば、下克上という、階層が流動的になっている時代背景が(阿弥陀仏or神の前では)「平等」という観念にシンパシーを覚える要因であったということである。
なるほど非常に興味深い意見である。教義レベルではなく、民衆レベルでどれだけ「平等」というものが認識されていたかということを実証的に研究していく必要はあるが、幕末の新宗教・明治維新の廃仏毀釈・戦後すぐの新宗教乱立といった「時代の流れと宗教」の関係を思うとき、非常に説得力のある意見だと思う。
しかしながら、「宗教的寛容さ」に関連して言うと、汎神論的状況や神々の祭祀を否定する宗教を受け入れていることがより重要である。もちろん、先の「平等」観と同じく、民衆レベルにおいてどれだけ既存の祭祀が否定されたかということは検証を要する。しかしもし、改宗者の一般的傾向が、後世の廃仏毀釈に抵抗した真宗門徒のそれと軌を一にするならば、「宗教的寛容さ」という評価そのもの、あるいはその内実について大きく見解を改めなければならなくなるだろう。それと同時に、そのような傾向が、織田信長始めとする戦国大名たちの勝利・政策によって江戸時代のキリシタン禁制・仏教統制へと繋がっていくという歴史の流れの重要性が理解されることになるだろう。
追記
現在の状況から、日本人は「宗教的に寛容である(あるいはそうでなければならない)」と見ているのだとしたら、それは「回顧による誤謬」と言わなければならないだろう。
で、意見のおおよそ共通する部分を抜き出せば、神仏習合の伝統、ということになると見ています。
私個人の意見としては、現在でこそ宗教的寛容さが無知・無関心とともにあると思いますが、それを過去に適応できるのかかなり疑わしいと思っています。
時代は仏教、そして密教。神道は苦しかったろうなー
ところで、それを受け入れる側の民衆はどうだったんでしょうか?最澄によって民衆への仏教拡大の契機が生まれたとかいう話を聞いたことがありますが、その時にそれまで祀っていた神々と並んで仏を祀るということに葛藤が生まれたりしたのでしょうか?確かまだ本地垂迹説は生まれてない頃ですよね。このような疑問が生じます。
哲学史と(民衆)思想史という区分を重視する私としては、そこに相違があるのかないのか気になるところです。でもこれ史料からはわかんなそうだなあ(^^;)
追記
◎神道の範囲…民間信仰も全て神道か
◎どこの国にも言えることだが、「一つの宗 教(的状況)」しか存在しないということ はありえない。
というあたりが考察の前提として重要かもしれませんね。
民間布教は、むしろ行基に注目。
習合は最澄よりもやや後じゃないかな。この辺の時期をはっきりさせとこう!