「信仰が篤い」という観念

2006-03-19 19:58:10 | 宗教分析
前回、宗教に対する態度などに関して比較する際、「信仰が篤い」という基準は恣意的なものになる危険性が多分に存在することを書きました。それについて、もう少し例を挙げておきましょう。


宗教には戒律がつきものですが、その内容は千差万別です。さて、ここに二つの宗教があるとします。一つは食物に対する膨大な戒律を含むもの、もう一つは2,3食べてはいけない食物が規定されているだけです。ここで、前者の宗教に属し、戒律をいくつか破ってしまった人と、後者の宗教に属し、戒律を守っている人がいます。彼らのうちどちらが「信仰が篤い」のでしょうか?


この例に対して「教条主義的視点だ」という批判が出るかもしれませんが、私が提示したいのは、あくまで「信仰が篤い」という基準がいかにあやふやなものか、ということなのです。そもそも、過去の人々の信仰のあり方、言い換えれば生々しい内面を現代の我々が把握することは困難です(別のかたちで後述)。とすれば、比較において形式的な部分がクローズアップされる必然性は十分にあると思うのですがどうでしょうか。


しかしまた、どのような人間が「信仰が篤い」とされてきたのか、つまり民衆や知識人の信仰(心)に対する観念の研究は非常に重要です。それは当然「かくあれかし」的な内容になりますが、前述のように生々しい個々の内面が把握しがたい以上、このアプローチを中心にせざるをえないでしょう(しかし同時に、例えば近世以降の経塚として特徴的な一字一石経塚など民間の信仰状況を伝える資料を使用していく必要があるのは言うまでもありません。また、外国人の見聞記なども、注意して使えば有益なものとなるでしょう)。


その場合でも、各々の宗教が異なった基準を持っていること、さらに情報として得られる信仰への観念があくまで理想像であること、の二つを強く意識する必要があるでしょう。とすれば今は、「信仰の篤さ」という怪しげであやふやな基準で比較するより、「AはBと(このように)異なっている」「DはGと(このように)異なっている」「BとGは(この点で)似ている」という、実態描写的な把握にとどめておくほうがよほど適切であるように思うのです。そうすることで、「西欧の基準から見た日本の性格」、「その見方への反動としての日本分析」の二つから、より自由になれるのではないでしょうか。
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