個人の嗜好を勝手に一般化してるだけなんで突っ込みどころ満載だが、元が炎上と話題性を狙ってるだけなんで、これはそもそも何かを論じたら負けってヤツだなあと思って静観していた。が、俯瞰的に構造を解説する動画が表れたので掲載しておこうと思う。
パーカー云々の話は先に述べた通り個人の嗜好に過ぎないものを意図的に過剰一般化しているだけであり、逆にこれに乗っかって「女叩き」的なものを始めるのは愚昧の極みとしても、男女の言説に対するスタンス評価が非対称であるとの指摘は重要だろう(なお、個人的嗜好と社会的・公的な要求の件は後述)。
即ち、「おばさん」やそれにまつわる装いの問題を公的に語れば(それが法的に完全アウトなものでもない限り)大やけどを免れ得ないが、逆は許容されるか、または許容の度合いが大きい、というアンバランスさがあって、その根底には「男らしさ」の観念があり、自らに対する揶揄に反発するのはその期待像にそぐわない「女々しい」行為というわけである。
冷静な眼差しがあれば、(もちろん月経や妊娠といった差異は当然のこととして)少なくとも男女平等を社会的に推進するのが是とする立場に立つなら、この言説が矛盾だらけであることは容易に理解できるところだ。というのも、今述べた「男らしさ」の観念が成立するには、「男=強者」という図式が不可欠であり(ある種「ノーブルズオブリージュ」的な寛恕・忍耐の精神が必要というわけだ)、それは裏を返せば「女=弱者」が自明に成立するという話になるからで、そのような発想は即ち「女は大人しく男の後ろに立ち自己主張するな」といったありがちで馬鹿げたマッチョイズムと陸続きなのである。
これは未成年を例に考えてみるとわかりやすい。すなわち彼・彼女らは、選挙権や飲酒、運転免許などに関して権利を制限されている代わりに、いわば保護すべき対象とみなされているわけだ。つまり、「権利には責任が伴う」以上、判断力や発育状態に応じて権利が制限されているケースがあるわけで、逆に権利があるにもかかわらず責任が果たされなければ、「義務と権利の不一致」といった言葉で批判されることにもなる(是非はともかく、かつては選挙権が納税額や従軍行為と密接に結びついていた歴史的事実も想起したいところだ)。
言い換えると、「大人-子ども」と違って「男-女」に今述べたような非対称性は成立しえないわけだから(少なくとも今の先進国はそういう前提・理念で動いている)、社会的・公的には男女平等を促進していくのが望ましいという立場なら、男が女に弱者として社会に進出するなと主張するのができないのと同じように、女は男に強者であり続けよと要求することはできないのだが、言説の非対称性というものは、そのような意識が健全に機能していないことを意味しているのである。
念のため言っておくが、例えば「私はアルマーニを着ていない男は人間とみなさない」などと個人的に思うのは自由だし(ただしそういう極端な嗜好で社会を生きていると大いに不利益を被るだろうが)、「俺は女性にスカートを履いていてほしい」と思うのも然りだ。さりながら、それを社会的・公的な場で他者に要求することはできない(=自らの嗜好を他者に強制できない)、という話である。その意味で言えば、とかく問題発言の多いひろゆきが言った「つまりパーカー嫌いな人はパーカー好きな人と自動的に関わらなくなるから、win-winでいいんじゃない?」という趣旨の意見は、この点で全くのところ妥当なものと評価できる。
ただ、繰り返しになるが、そういう個人的嗜好と社会的な話の切り分けは大前提としても、動画で言及されるような、男女の言説に対して要求されるスタンスの非対照性の件が、ここでは極めて重要だと思われる。というのもその点こそが、「男性は女性に奢るべきか」問題であったり、牛角のセールに対する批判とそれへの再批判の程度の低さの要因など、様々な「論争」の根底にあると思われるからだ。
ちなみに、前者は個人的にやりたければ勝手にすればいい話で、それを社会的・公的に要求すればたかり=脅迫罪に近似し、かつそれを肯定するなら犯罪教唆的なものに近づいていく類のものである(ちなみに私は女性には奢るし部下や後輩にも奢る)。また後者については、様々な論点があるにもかかわらず、それを「小さい事にこだわって女々しい」といったような、かつては男性が女性を差別する時に投げかけられていた言説を平気で垂れ流しているあたりに、男女平等を社会的公益性の観点ではなく、ただ自分たちの権利主張の材料に用いているだけの思考停止状態の輩が少なからずいることを露呈させることになった(ちなみにだが、男女の食事量の差異を科学的に提示し、さらに子どもと大人で食べ放題の料金設定が異なるのは他の様々な店でもやっている等、議論の展開のさせ方は色々あるはずなのだが、にもかかわらずそういった性差別的かつ人格攻撃的な言説が出てくるあたり、程度の低さが伺える、というのが私の評価だ)。
これらは前時代的な性別役割的観念(男性=強者、女性=弱者)の残滓であり、かつそれが男女平等の推進という社会的スローガンと並列しているからこそ、強い反発を生むようになっているのである(念のため強調しておくと、完全にパブリックな領域においてならともかく、プライベートな領域を全く同じように扱うのは困難な部分があり、しかも両者が截然と分けられるとも限らな点が問題を難しくしている)。
ちなみに、これがわかりやすい形で噴出したのが男性の体臭問題に関する発言とそれによる失職であり、「おじさんの詰め合わせ」という表現への批判だったりするが、昨今の状況を見ていると、これが問題視されるケースは以降さらに一般化していく可能性が高いと思われる。それは社会通念的な理解が進むというより、むしろそれを公的に発現することで大いにパブリックイメージに傷がつき、マーケティング的にはマイナスを生じるため封印することが賢明だ、という認識が広がっていくからだ(わざわざ自らのイメージダウンを狙って広告を打つ愚者はいない。まあ案件をゴリゴリ失ったり失職したとしてもなお自己の単なる嗜好の主張に社会的意義があるとお考えなら、どうぞ好きにおやりなさいって話だが)。
ま、こういう状況は議論の成熟(熟議社会)よりもおそらく分裂・分断を促進し、男女間はもちろん同性間でも属性の相違が広がってコミュニケーションのハードルがどんどん上がっていき(社会の過剰マニュアル化を止めるのが困難な理由の一つ)、「実りの少ない対人コミュニケーションより、出来の良いAIがマシ」という人間が増えていくであろう、といういつもの話に落ち着くのではあるが(・∀・)
以上。
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