どちらもメタ視点が重要。
『はじめの一歩』の鴨川会長について、「無能セコンド」とする説があるらしい。なるほど確かに、そのアドバイスや采配に疑問を感じる場面はあるが、一方で作者は鷹村や幕ノ内などの選手を育てた名セコンドという意図で彼を描いていると言っていいだろう。
ではなぜ、そのような「齟齬」が生まれてしまうのだろうか?ここでベタに「有能なセコンド」・「無能なセコンド」の定義を論じるのもいいが、あまり有益だとは思われないので、メタ視点に立って「もし仮に鴨川会長が非の打ちどころがないほど有能だったらどうなるか?」を考えてみてはどうだろう。
すると、定義からして、彼が失敗はもちろん焦るような場面は起こりえず、試合中含めた「事故」でも起きない限り、全て想定の範囲内で事態は進んでいくことだろう。結果として、物語展開にサプライズ要素は激減し、緊迫感はなくなる。たとえ不利になるマッチメイクであろうと、彼の中には勝利の方程式がすでに確立されており、それが成し遂げられるのを見るだけだからだ。そしてそのような世界であるから、一歩たちの(努)力という要素は退かざるをえない。というのもそれは、専ら会長の敷いたレールに乗るための調整でしかなくなるからである。すると当然、相手の想定以上の強さに勝利へのプランが思惑通りにいかないとか、敵方の戦略によって自分の力が思うように発揮できないとか、そういう当然起こりえる事態に対してリングの上でどう勝利を手繰り寄せるのかというような、(敵さえ含めた)選手とセコンドのセッションが織りなす臨場感は後退せざるをえない(セコンドという話からは若干外れる部分はあるが、現実の試合で言えばリゴンドーVSドネア、井上VSドネア第1戦、井上VSドネア第2戦を比較材料とするとわかりやすいのではないか)。「はじめの一歩」という題名や主人公のキャラクターからしても、このような方向性は採用されえないものだっただろう。
以上のような理由で、鴨川会長の采配は、多くの場合「危機に瀕することを運命づけられている」。これが作中では有能なセコンドという方向で描かれるにもかかわらず、彼の「無能」説が惹起する理由だろう。言い換えれば、その齟齬には物語展開上の必要性・必然性が関係しているのである。
ところで、このようなメタ視点、すなわち「なぜそのような言説が登場するのか」という視点を「天国と地獄」に適用してみると非常に興味深い。天国と地獄と聞けば、たいていは「存在するのかしないのか」という話になることが多いが、有名なカントのアンチノミーにもあるように、その結論は「わからない」とならざるをえない(ぴよぴーよ速報風に言えば「死後の世界はあるのですか?」「死んでみろ」とでもなろうか)。
では何もわからないのかというと、そうではない。「なぜ、わからないものについてあたかもわかるかのように、『天国と地獄』という言説がある程度の説得力をもって跳梁跋扈するのか」という問いを立てればよいのだ。死後は「無」であってもよいし、「天国のみ」、「地獄のみ」という可能性だってあるだろう。それにもかかわらず、どうして「天国と地獄」という二者択一(が広まっている)なのだろうか?
この時参考になるのが、古代ギリシアのデモクリトスや、それを継承したヘレニズム時代のエピクロスの発想だろう。デモクリトスは万物の根源を「原子」と定めたが、それは結果として、すべての最小単数=原子であり、それ以上のもの、すなわち魂や死後の世界がごとき「不可知の世界」は存在しないという結論を生み出した。そしてこれを継承したエピクロスは、死後の世界など存在しないのだから、死んだ後のことを恐れず今を心安らかに生きようという「アタラクシア」(心の平安)を提唱したのであった(ちなみにこのデモクリトスーエピクロス的発想は後にマルクスなどの唯物論になっていくのはよく知られた話である)。
こう考えてみるに、「天国と地獄」という世界観は、現世での生き方を束縛し、またそれに対する報酬を約束するものであると言える。このロジックからすれば、今自分が貧しくてもある規範に従って生きれば死後は救いを得られるし、逆に今この世で邪知暴虐の振舞を行っている富裕層や権力者も規範から外れているがゆえに死後罰せられるのだと知れば、前者にとっては溜飲が下がるだけでなく生活の指針が生まれ、後者にとっては悪逆非道を抑え再配分などをより意識するようになる、というわけだ(端的に言えば、こうやって統治に体よくされたと考えるのがマルクスで、そうやって人に生きる指針を与えたのだから仮に実在しなくても有益だろうと述べたのがパスカルであろう)。
もちろん、『ヨブ記』の記述や予定説のように、こういった想定でとらえきれない要素もあるが、概ねこのような理解で外れてはいないだろう(まあだからこそ、「不合理ゆえに我信ず」というスタンスも生まれうるわけだが)。そしてかかる理解に立てば、天国や地獄は実在するか否かというより、人間がどういう想像力でもってこの世界を理解しようとしてきたかという、『サピエンス全史』のハラリ的な文明理解につながるものとして活用できるし、その方がよほど有益ではないかと述べつつ、この稿を終えたい。
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