告発の交換可能性について:女性の訴えが腹立つなら、男性の訴えも奨励したらええやん

2024-02-24 11:18:36 | 感想など

朝鮮日報で女優のハン・ソヒが性行為の要求を恫喝的に行ったことにより告発されたという記事を見て、今後はこういう男性→女性というベクトルの告発も増えていくのだろうかと興味を持った。

 

アメリカのエプスタイン事件やMe too運動の広がり、あるいはイギリスでのジミー・サヴィル事件とメディアの癒着の関係など、権力を媒介にした性被害とその告発は徐々に広がってきている(今だと松本人志の件が大きくクローズアップされているのはよく知られている通りだ)。

 

これは新しい動きであるため様々な論点もあるが、私は基本的にこの傾向を歓迎している。ゆえに私が問題と思うのは、こういった告発や権利主張をあたかも女性(だけ)の不注意やエゴのように非難し、告発者の方を押しつぶそうとする言行である。いや別の角度で言うと、告発者である女性を抑圧することが男性の権益を守ることと同義とでも言うようなメンタリティを、不思議なものだとさえ私は思っている(「性暴力の告発について」でも書いたが、性暴力における告発者の状況が理解できない場合、パワハラや恐喝に対する反応のアナロジーで考えてみるとわかりやすい)。

 

例えば、「女尊男卑」という言葉はそういう精神性を典型的に象徴するものだと考えるが、疑問に感じるのは、その揶揄・批判の次にくるのが「では女尊男尊にして互恵性のある状態を作るにはどうしたらよいのか?」という視点が管見の限りほとんど欠落しているように見えることだ。

 

当たり前の話だが、性被害は「男性→女性」というベクトルのみで生じるわけではなく、「女性→男性」の場合もあれば、「男性→男性」もあるし、「女性→女性」もある。そのどれもが等しく性被害であり、そこに軽重など存在しない、というのが正しく「法の下の平等」ということではないだろうか(あるいは社会規範による抑圧という点では、「宮崎浩一・西岡真由美『男性の性被害』:なぜそれは不可視化されてきたのか」も参照)。

 

つまり冒頭の朝鮮日報の記事のように、男性が女性を告発することは当然起こりうるし、男女関係なくその権利を当然のように認めるべきであるという話である(もちろん告発=全て真実というわけではないので、内容が妥当か否かは裁判で争われることになる)。

 

 

 

 

こうして「告発の交換可能性」が達成されていく中で、例えば女性からのデートDVを告発する男性や、女性から奢るのを要求されたとして「たかり行為=脅迫罪」と告発する男性も出てくるだろうし、あるいは「ヒモ」のような状態となった男性に今までかかった金銭支払いを要求する女性も出てくるかもしれない・・・というようにして、女性の告発の権利を広く認めつつ、同等に男性の告発の権利を認めることで、平等性すなわち「女尊男尊」の状態を達成していくのだ、というスタンスでいけばよいのではないか(これは「『頂き女子』への課税で思う事:訴えの抑圧より訴えの社会化こそが重要」などでも触れたとおりだ)。

 

これであれば、告発したい女性はそれがやりやすくなるし、またこれまで「女性より力が強いので男性の方が我慢すべきだ」などと教え込まれてきた男性諸君も、大手を振って告発が可能となる。そしてさらに言えば、こういう主張に対し、「女性の告発は重要視しながら、男性のそれはよく吟味もせず否定する」といった人間がいれば、実態は単なる差別主義者として炙り出し、それを非難・断罪することもできるというわけだ(言い換えると、「女尊男卑だ!」と不満を訴えている人たちも、普遍主義的発想が欠落した単なるエゴイストたちは誰なのかと、その批判の矛先を明晰にすることができるというメリットがある)。

 

こうして男女問わず告発がどんどんなされていく中、当然のように共生のためのガイドラインは更改されていくことだろう。それはあたかもイギリスにおける19世紀からの選挙法改正がごときであって、すなわち保守党と自由党の相克の中から、善意によらず、お互いの支持層=利権のために選挙権を拡充していった結果、参政権が広まっていった=権利が拡大していったのと似ている(これになぞらえて言うなら、権利の拡張や容認を「相手への恩恵」だと思うから腹が立つし突っ込みも入れたくなるのであって、自分たちの利益にもなるように制度設計していけばよい、との見地に立てばよいのである)。

 

もちろんこの中で、共生の作法を確立するのがおよそ困難となり、あまりに対人関係のハードルが上がった結果、発達したAIやbotとの関係に比重を置く人間の割合が年々増えていく国も出てくるかもしれない(=生身の人間をパートナーとする人の数が減っていくということ)。あるいは生身の人間との関係性についても、それが契約化する方向に行くのではないか・・・

 

と書けば異常な話をしているように感じる向きもあるかもしれないが、パパ活(金銭を媒介にした主に男女間の契約関係)とその広がりが観察され、その他にも「レンタル家族」「レンタル彼女」であったり、「レンタルなんもしない人」なるものさえ存在しているわけで、共通前提の崩壊とリスクヘッジのために、そういうものの利用幅が拡大していくだけのことだ(喩えて言うなら、動物をペットとして飼うのは様々な手間やリスクを伴うが、猫カフェなど限られた時間・場所で金銭を媒介にして「癒し」を得るようなものだ)。

 

しかしそれならそれで、価値観が多様化した成熟社会で消費も旺盛な先進国にさらなる人口抑制が生じるという意味では地球環境的には良いのであり(先進国で合法的に人口を急増させるのは難しいが、平和裏に人口を急減させるのはもっと難しい)、人類の存続が必然でも善でもない以上、別段嘆くべきことでもないと私は思うのである。


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