「無知は罪」の実例がこちらです:クマの駆除反対について

2024-12-11 11:39:19 | 生活

 

 

クマの駆除に関する記事は前にも書いたが、「無知は罪」(あるいは感情の自動機械)という言葉がこれほどよく当てはまる事例もなかなかないだろう。

 

ここで注意すべきは、問題なのは動物愛護の精神ではなく多面的な見方や実情を知らない(あるいは知ろうともしない)姿勢に他ならない。そしてそのような頽落した人間たちが情動に流されこぞって声を上げる時、共生の作法というものは著しく脅かされるのである。

 

いやいやちょっと待ってくれよ、クマたちの棲息領域の問題はないんか?という反論が出るかもしれないが、もし本当にそれを問題として日々感じているのなら、声を上げるべき内容は、「クマの駆除反対」では決してないはずだ。

 

というのも、クマが人里に降りてきた時点で、それは言わば自動運転の車(システムエラー中)が、車道・歩道を問わず我が物顔で走っているようなものだからである(そのような危険性を認識できないなら、それこそが無知というものだ)。

 

つまりリアルな人命のリスクが目の前にある以上、駆除という対応自体は避けがたい(もしそれを否定するなら、「そんな大したリスクがないのなら、あなたが身を張ってクマを山に帰してはどうか?」などと言われて終わりである)。

 

であるがゆえに、「起こってしまったものについては断腸の思いでそれを受け入れるが、しかし今後そのような事態が最小化されるようにどのような取り組みが可能か調査しうた上で、提言していく。場合によっては、自らそこに参画する」というのが、クマのことを考え、また駆除という対処について心を痛めている人間が、真に行うべきことなのではないだろうか。

 

それをしていない時点で、人の命に関わる案件であることを軽視し、ただ感情の奴隷になって反対を叫んでいるように見えるし、そうみなされても反論は極めて難しいだろう(「反対するなら代案を出せよ!」という物言いは単なる反論潰しになる危険性を孕んでいるが、今回の案件は人命が脅かされるレベルの話であることを想起したい)。

 

なお、念のため言っておくが、「しょうがない部分もあるけど、クマの駆除ってなんか悲しいわ。これもうちょっとどうにかならないのかな・・・」といった意見表明は当然ありえるし、それを行うのは言うまでもなく自由だ。しかし、特に役所へクレームを入れるような行動はと言えば、完全にそれは社会的影響を及ぼす行為であり、本当にそのような対応が問題だと感じるなら、むしろ「そのような主張者=愚昧というレッテルさえ張られかねないかかる行為は厳に慎むべきだ」ということづらい気付きそうなものである。

 

ちなみに、そのような状況を真剣に憂いている人にとって、今の日本の状況は「朗報」と言えるかもしれない。というのも、空き家問題について限界ニュータウンの話で触れたが、今の日本は人口減少(少子高齢化)などにより、コミュニティの規模は縮小していく(≒動物の生活領域が拡大する)可能性が高いからだ。とはいえ、コンパクトシティのような取り組みが急速に進むかと言えば、事はそう単純ではない。というわけで、クマの駆除反対!と考えている人は、ホンネを隠して日本のコンパクトシティ化推進を訴えていくのが最適解ではないかな(戦略的口実かガチで言っているのか区別がつかないという件は、前回記事の動画で紹介される「ザ・ディプロマット」と同じやね)、との述べつつこの稿を終えたい。


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