隠岐の西郷港に近い玉若酢命神社。その八百杉を見学したところで、隣接する宝物殿を訪れる。
普通の民家やんwて話だが、実際呼び鈴を鳴らして受付の方を呼ぶシステムになっておりマス。
宮司一族の方が現われ、宝物殿の中に案内していただく。名称から巨大な施設を連想するかもしれないが、写真からもある程度わかる通り、「建物の一室」という規模感である。
さて、中の撮影はできないので展示物を簡単に説明すると、古代律令制の時代に使われた駅鈴が最も有名だが、光格天皇から下賜された唐櫃なども見ることができる(ちなみに駅鈴の使われ方がイメージしづらい人は、モンゴル帝国のジャムチとパイザなどを連想するとよいだろう)。
光格天皇か、なるほど!と思わず膝を打ったわけだが、それと言うのも、藤田覚『幕末の天皇』が記すように、18世紀後半に天皇となった彼は、中絶していた数々の宮中儀式を復活させたり、朝幕関係を変えるべく動いたりと、その復古主義的行動でよく知られる人物で、それに伴う諸々の変化が、後の孝明天皇の言行やペリー来航後の朝幕関係にも一種の「前例」として大きな影響を与えた。その彼が、古代律令制の残滓としての駅鈴に注目し、それをわざわざ京まで運ばせたというのは、実に象徴的だなと思ったからだ(ちなみにその駅鈴を隠岐に返却する際、保管用の容れ物として下賜したのが前述の唐櫃である)。
天皇が政治の前面から退き、一般民衆からかなりの程度忘れられかけていた江戸時代という時期において、天皇の存在感を強めんとする彼にとっては、天皇が親政を行い、公地公民制が行きわたっていたとされる時代に一種の憧れを持つのは、半ば必然的なことと言えるだろう(まあ駅鈴が導入された7世紀当時は、中大兄王子らによる蘇我氏暗殺=乙巳の変が起こるなどしたものの、まだ大宝律令もなければ班田収授法もないわけで、システム的には未成熟な状態であったわけだが)。
「ナショナリズムの高揚において伝統が(再)発見」されるという現象は日本に限らず様々な地域で見られる現象だが(そしてそこにホブズホウム言うところの「作られた伝統」が半ば意図的に混入させられるのもよく指摘されている通り)、その中において、地方=辺境とされていた地域が、むしろそうであるがゆえに、かえって昔の文物などを残存させている「古き良き場所」としてクローズアップされるというのも、ありふれてはいるが、こうして実見すると大変興味深い現象の一つである。
この点、ここに来る前に見た社殿なき原始神道の姿を残す岩倉神社や大山神社もそうであるし、加えて幕府に対抗しようとして後鳥羽上皇・後醍醐天皇がここ隠岐に流されたとあれば(まあ前者は現在の海士町で後者は西ノ島町だが)、「王政復古」という文脈におけるその象徴的意味・重要性は想像に難くない、というわけだ(ちなみに光格天皇は皇位継承で言うと傍流の系譜におり、その意味でも後醍醐天皇に親近感を覚えやすい立場ではあっただろう)。
そしてこう考えてくると、ペリー来航の時代に、離島の隠岐もまた(本土の松江藩とは違って)強い危機感を持ち、それが神道系の学者を招くなどして尊王攘夷思想の普及・高揚が行われ、それが後の松江藩からの独立運動=隠岐騒動(この点からは草の根ナショナリズム=パトリオティズム的とも言える)へと繋がり、さらにそこでの仏教勢力の立ち回りから、明治政府による神仏分離令の際に生じた廃仏毀釈では、薩摩藩や津和野藩と並ぶ苛烈な仏教弾圧が行われ、一時は寺院が根絶されるにまでいたった・・・というのもむべなるかなである(ただ、前にも書いたように、それが日本人の宗教意識にどの程度変化を生じさせたかと言えば、戦中の「九段の母」とその流行から見ても極めて限定的であり、隠岐のような一部地域を除けば、その影響は神社と寺院の区別明確化といった教団レベルに止まっていたのではないか、と考えられる)。
もちろん、こういった一つの体系化した理解というのは、わかりやすい一方で地域性や階層などのグラデーションを無視しがちという危険性を孕んでいる(例えば、武士階級や富裕層≒知識階級は前述のような島と天皇の関係性からナショナリズムに燃えていたが、農民や漁民はさして興味を抱いていなかった、ということは考えうる)。
ということを考えるきっかけとなったので、大変満足しながら宝物殿を後にした。
ちょっと休憩がてら、今までとは違う角度から境内を撮影。
では、次の目的地へ移動する前にもう一度社殿の姿を収めておこう。
うーし、じゃあ一度西郷港の方に行ってみるとしますかね。
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