「アキハバラ発」?「HOW TO READ DEATH NOTE」?それとも「DEATH NOTE /A」?久しぶりに本棚から出して読み返してみたが、該当する記述は見つけられなかった。
何の話か?おそらく一年くらい前のことだが、「夜神月はその願望がネタ化して書かれているのに、彼に共鳴する人が多いことに驚いた」という趣旨の記事をかつて読んだことがある。それを見て逆に俺は驚いたのだった。もちろん、夜神にどのような魅力を感じたかは多種多様だろう。たとえば同一化に伴う全能感、あるいは「そこに痺れる憧れるぅ的」なトリックスターとして(笑)といった具合に(ちなみに俺の評価は「ヒーロー、ピカレスク、ピエロ」で書いた通り)。しかしそれでも、ある程度共通した背景は見いだせるのではないかと思う。試みにデスノートが連載され始めた頃のことを記述してみよう。
デスノートが始まったのは2003年だが、その前には2001の少年法改正(厳罰化)、2011.9.11の同時多発テロなどが起こっており、社会不安に基づいてセキュリティの問題が大きく取りざたされた時期であった(その他、たとえば少年犯罪をクローズアップした「ひぐらしのなく頃に」の鬼隠し編が2002年に発売されている)。また同時に、格差社会なども問題視されるようになり、社会への漠然とした不安や怒り・憤りを抱えている人が増えてきた時期とも言えるのではないだろうか。しかし一方で、何に対してどう怒ればいいのかわからない。ミスチル「さよなら2001年」の中に出てくる「君は拳を堅く握って だけど誰にも振り下ろせはしない」という歌詞は象徴的だが、そのような閉塞感は「断固・決然」を叫ぶわかりやすい小泉政権の支持へと向かい、「旋風」が巻き起こる・・・(なお、町山智浩の諸作品を読めばわかるが、このような傾向はアメリカにも明確に見て取れる)。
以上のごとき状況を鑑みれば、夜神月が凶悪犯のような「わかりやすい悪」を裁いていく様を多くの人たちが肯定的に受け止め、例えばFBIの犠牲者たちのごときも大いなる目的のための小さな犠牲にすぎない、といった具合に評価したとしても、全く驚くべきことではない(もちろん、高田への仕打ちを初めとして読者が「覚醒」するタイミングは随所にあったとも思うのだが)。その意味で、俺は夜神月を肯定的に評価する人が多いことに驚く方が、むしろ意外な感じがするのである(これに関して私は、「沙耶の唄」という作品の受け取られ方について、作者がその演出方法に意識的でないがゆえにそのコミット・埋没の構造を理解できなかったこと、そしてその割に「理性もまた狂気」などと語っていた滑稽さを連想する)。
ところで、このような漠然とした社会への不安や怒り(=夜神が支持される基盤)は、後の「秋葉原通り魔事件」にも繋がるものであるように思われる。 つまり、誰に向ければいいのかわからないがゆえに、身近な人や組織を攻撃するのではなく、むしろ全く無関係のものに矛先が向けられるのである(もちろん、デスノートの場合と違い、通り魔事件の人たちは何の罪もない人たちであることを強調しておきたい。また、俺はもちろんそのような行為を許容する気は全くないが、その事と行為に到る構造を冷静に分析することは別物とも思うのである)。しかも、このような行為態度は決して孤立したものではない。俺はこれから先「嘲笑の淵源」の続きとして自らの事例を元に語るつもりでいるが、作品としても「太陽を盗んだ男」や「接吻」、「殺人の追憶」といった諸々の傑作が、多様化・不透明化する社会とそれへの不安・不全感を適切に描き出している。そのようなエートスを捉えなければ、いくら「合理的」な解釈や解決法を求めたところで時間の無駄だ(それは例えば、「接吻」で小池栄子が迫真の演技をもって自分たちを抑圧してきた社会への復讐を訴える場面に対し、「俺たちも我慢してるのに、自分たちばかり被害者顔されてもねえ」としか思えないような閉塞した思考態度と同じだ)。
つまり夜神月のエートスは、(それがテロリズムを肯定・促進するというよりもむしろ)時代の閉塞感や不全感を適切に代弁しており、それゆえに支持されたと言えるのではないだろうか。
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