死者約2700万人・・・この数値を聞いてどのような印象を持つだろうか?
これは第二次世界大戦(1939~1945)におけるソ連の総死亡者数(戦闘員+民間人)の推計である。あまりに膨大な数字でイメージが湧きにくいと思うので、試みに同時期での日本の総死者数(同上のカテゴリー)を見ると、およそ300万人とされている。南方戦線での大量餓死、特攻、沖縄決戦、東京大空襲、原爆etc...といった凄惨な出来事がすぐに思い浮かぶ我が国の死亡者数ですら、その10分の1程度でしかないのである(なお、同時期でドイツの総死亡者数は650万程度とされている)。
ちなみに第一次世界大戦全体での総死亡者数は1600万程度とされているから、ソ連単体で優にそれを上回っているという点でも、驚愕すべき数値であることが理解されるだろう。ではなぜ、そのような死亡者数が生じたのだろうか?その疑問を踏まえつつ、ソ連とドイツの戦争において、その具体的な展開の描写はもちろん、ドイツがそれを「絶滅戦争」と名付け、捕虜の虐殺や反逆する恐れがある(と決めつけた)人々の大量処刑をしていった様を描き出したのがこの『独ソ戦』である(念のため注意を喚起しておくと、本書は単に戦争犯罪を暴き出すことを目的とするというより、独ソ戦の実態を最新の知見に基づいて整理する、という意味合いが強い)。
そこでは、「アーリア民族」なるものを称揚し、ゲルマン民族とスラブ民族との宿命の戦い(これ自体は、第一次大戦でロシアに大勝した戦いを「タンネンベルクの戦い」と名付け、かつてのドイツ騎士団VSヤゲヴォ朝の戦いをあえて想起させる演出がなされたように、必ずしも目新しい図式ではない)を強調して「全滅戦争」を訴えたヒトラーないし首脳陣の方針が指摘されるとともに、それを様々な形で黙認した将官たちの姿が描かれている(大量処刑などを実行して全滅戦争の方針を体現した著名な組織の一つにアインザッツグルッペンやゾンダーコマンドが挙げられる。なお、将官たちについてはマンシュタインやグデーリアン、あるいはドイツ国防軍全体に焦点を当てていずれ言及するかもしれない。旧来の見方ではドイツ国防軍≒無罪のような扱われ方をしていたが、今日ではそういった行為にも加担していたことがわかっており、良くて黙認というスタンスを取ったに過ぎなかった)。
ここで私が思い出すのは、国際法であり、またその重要性である。たとえば、(ルールを決めた主軸の)先進国が国際法を破っている場面を見て「国際法なんて意味がない」などという放言に出くわすことがある。しかし、そういった「枷」がなければどのようなことが起こりうるか、あるいはどれほどの蛮行をなしうるかの実例が、まさに独ソ戦であると言えよう。なるほど確かに、国際法というものが守るべき規範として提示されながら、一部の先進国は陰に日向に平気で違反するという現実(remember Guantanamo)を見て、それが単なるお題目でしかなく、ゆえに無意味であると叫びたくなる心情は理解できなくもない。
しかしながら、国際法のような準拠枠があるからこそ、行為者には歯止めがかかるのだし、また被害者や第三者がそれを批判することもできるのである。もし仮に、そのような歯止めがなくなれば、どういう状況が惹起するか?(もちろん国際法だけがルールではないで)極端に言えば、「勝者こそ正義。敗者は一片の異議を唱える権利もなし」として、勝者という存在は一切の行為を正当化され、敗者は一切の異議申し立ての機会や権利を失う。(下手をすれば)未来永劫に、だ。
そのような現実を改めて認識させてくれるのが、本書だと私は思うのである。ルールなき戦争、すなわち絶滅戦争(略奪や強制収容、大量虐殺)というものの惨禍がどのようなものであったか。その実態を知れば、戦争という非日常においても、いや戦争という非日常「だからこそ」、歯止めが必要だということに思い至らざるをえないだろう。端的に言えば、「みんなで決めた人権を大事にしようっていうルールだから、ちゃんと守っていこうね」などという発想はナイーブの極みであって、不透明な他者を相手にするからこそ、最悪の事態を避けるためのルール設定がリスクヘッジ上必要不可欠であるという話なのだ(そこでは、価値観も大きく異なるのはもちろん、相手の内面など知りえない以上、「以心伝心」などという発想で「わかり合い」に期待する精神性は愚の骨頂である)。
このような現実を認識した時、ホイジンガが戦争についても「遊び」という概念を持ち出したことを想起するのは非常に有益ではないだろうか。これは戦争が「遊戯」であるということではなく、「戦争というものが数多くの擬制によって成り立っている」ということを意味する。その正しさは、宗教戦争(VS異教・異宗派)やナショナリズムに基づいた総力戦という諸現象の中で、ルールなき他者の絶滅が目指された事例から、鏡のように証明できるのではないだろうか(ここでホイジンガが、「遊び」の対概念として「まじめさ」を設定し、それが当時のナチスドイツを想定していたことに注意を喚起したい。また、国際法の父グロティウスが『戦争と平和の法』を著したのは、ネーデルラント独立戦争や三十年戦争という宗教戦争およびその惨禍を目の当たりにし、それを防遏する枠組みを構築するのが目的だったことは示唆に富んでいるだろう)。
繰り返すが、国際法というものについて、先進国や覇権国家が破っているから「それは強い権力を持った者の支配のツールに過ぎない」かのようにとらえるのは歴史やリアルポリティクスを無視した短絡的な理解であって、むしろそれがあるからこそ批判や歯止めも成立するし、また過去の検証もできるのだと強調しておきたい(例えば、東京大空襲や原爆投下といった行為を国際法違反だと異議を唱えるのであれば、当然のようにナチスドイツの蛮行についても異議を唱えるべきだ。加えて、その中心にあったアドルフ=ヒトラーやその周辺を肯定するようなことはできようはずもない。それがルールに基づいた普遍主義というものである)。
というわけで、装いに戦略的意味があるのと同じく、国際法にも枠をはめてその中で行動させるように掣肘する効果があることを忘れてはならないと述べつつ、この稿を終えることとしたい。
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