ひぐらし厄醒まし編の意味と効果

2008-01-28 01:58:31 | ひぐらし
職場も一昨日ノルマを達成し、土曜日のビッグイベントも徹夜して何とか乗り切った。ようやく少し余裕ができたぜ…


というわけで、止まっていたひぐらしを再開することにした。まずは「カケラ遊び」を買わねばならないが、その前にアニメ版ひぐらしの厄醒まし編(以下厄編)について書いておくことにしよう(まあ非常に今さらな話題ではあるがw)。


まずOPの「奈落の花」が最高!とそれはさておき……
簡単に言えば、厄編は皆編の準備という色合いが強い。原作の皆編で色々と批判が出たことを考慮してか(少なくとも俺自身は相当な分量の批判や問題点の考察を書いている)、犯人がかなり手馴れていたグループであることが(サイレンサーつきの銃などで)前もって明示されている。また、園崎姉妹も教室で死んでいたことから、園崎家暗躍もこの段階でほとんど否定できるようになっている。


その他、入江の不審な自殺、「大災害」が人為的なものであること、祟編の圭一の死に方などもわかるような構成になっている(これは原作をプレイした人間を視野に入れた演出だ。ここまではっきり書かれると、今さらな話だがインタビューをした記者も暗殺されたと見て間違いない)。富竹や鷹野との関係の深さをうかがわせたり、沙都子が雛身沢でどのように扱われているかも描写したりと、皆編で新情報が多くなりすぎないようにうまく配慮してあると言えるだろう。


しかし、厄編は沙都子の描き方という点で単なる繋ぎ以上の意味を持っている。思えば、沙都子は誰かに守ってもらったり一緒に闘ったりすることはあっても、単独で事態をどうにかしようとする場面はなかった(ひぐらし礼にいたっては、むしろ「敵」に近い)。それに反して、厄編では梨花を気遣いつつ、入江に相談をもちかけたりトラップを仕掛けたりと自分から動いている。おそらく沙都子の弱さが前面に出る皆編とバランスを取る目的もあるとは思うが、惨劇に挑む存在としての沙都子にスポットを当てたという点で、厄編は非常に重要な意味を持っているのである(なお、つり橋から落ちるシーンは圭一に対する罪の報いという意味合いがあると思われる)。


さて、こうなってくるとPS2の憑落し編や澪尽くし編も楽しみになってきたぜ。特に後者は、作者が(祭囃し以外の)どんな終わり方を目指したのか非常に興味がある。また「魂の唄」を聴かせてもらうことにしようか…

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「世間」と向き合うこと:無... | トップ | 新しいプリンと裏テレビジョン »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事