以前書いたように、俺は出来の悪い作品が嫌いだ。ではどういうものが好きなのかと言えば、ぎりぎりまで煮詰められ、高められたものに他ならない。っここで言う「高められた」とは「高尚」という意味ではない。要するに、それはエロでも萌えでもよいのだ。エロで売りたいなら腎虚になるまで抜き続けたくなるようなエロを、萌えで売りたいならのけぞってのたうちまわるほどの萌えを、ストーリーで売りたいなら必然性や伏線、構造とい . . . 本文を読む
(序)
最初に断っておくが、この記事は非常に個人的な経験から一般の終末思想のあり方を推論したものであって、様々な宗教教義を網羅した内容にはないっていない。もし深く知りたいのであれば、各種文献を読まれることをお勧めする。
(本文)
先日「病的な完璧主義:世界への敵意と滅びの希求」を書いたが、題名にもある通り、その内容が病的で神経症的な色彩を帯びているのは明らかである。ところで(気付いた人もいると . . . 本文を読む
前回、家族というシステムが消費という観点で有効であることを述べた。今回は、それを前提としてさらに話を進めてみたい。
現状の満ち足りた生活や個人主義は家族を作るリスクと責任を回避したがる傾向を生み出すのだが、これは大きな問題である。例えば今日、小さな子供でさえも消費社会に組み込まれており、彼らの中でブームを呼ぶことは大きな経済効果を生み出しうる(判断力に関係なく千円は千円である。利潤とはそういう . . . 本文を読む
先月の給料は、年末年始に働いていたこともあって結構な額になった。しかし取り立てて買うべきものなどないから、ほとんどは口座に眠ったままになるだろう。社会人になると金を使う暇が無いとは聞いていたが、それとは違う要因、つまり自分の物欲の欠落には我ながら驚いていたりする(私にとって、家や車、服といったものは、少なくとも今のところほとんど意味をなさないのだ)。
そんなことを考えていたら、家族という消費シ . . . 本文を読む
以前「世界への失望」を書き、そして前回「無関心と『嘲笑主義』:大学時代の精神」を書いた。その後で沙耶の唄のエンディングでどうして沙耶の側でモノを見るのが容易にできたのかだとか、テクノライズのカタストロフを何の抵抗も無く受け入れることができたのかについて考えていたら、小学五年~中学三年頃に自分の中にあった世界への敵意を思い出した。
「世界への敵意」とはどのようなものか?
ある社会的な不正や欺瞞な . . . 本文を読む
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』と谷流の『涼宮ハルヒの陰謀』(以下最後の漢字二字のみ記す)を読み終える。当初の予定ではそのまま『憤慨』へと移行するつもりだったが、『陰謀』が『憂鬱』、『退屈』と同様たいしておもしろくなかったので一端凍結し、放置されていたドストエフスキーの『罪と罰』へ戻ることにした(なお、『溜息』の批評・感想はこの記事、『消失』~『動揺』までの批評・感想はこの記事を参照)。
さ . . . 本文を読む
大学三年の時、友人の一人は私を評してこう言った。
「眼が死んでいる」
「人間に興味が無い」
「感情が希薄だ」
もし彼がこのうちの一つだけで私を論じたのであったら、たちどころに多くの例をもって反証したであろう。しかしながらこの三つを重ねることで、彼は当時の私にあり、そして今もあると予想される「欠落」という特徴を見事に指摘したのであった(感覚的な話になるが、この特徴は私の半身を構成する要素であった . . . 本文を読む
以前ひぐらし公式HP掲示板:壮大な思考実験場という記事を書いたそこでは、掲示板で見られた「便宜的な思考の枠組みの絶対化」が一般にも通用することを述べたのだが、それは言い換えれば「人は見たいものを見る」という傾向がひぐらし公式HPの掲示板によく表れていたということであった。
ところでその傾向は、一般的なものであるだけでなく、ひぐらし本編の中ではあるものによって象徴されている。それこそが、罪滅ぼし . . . 本文を読む