1983年は記憶に残る年だ。
NY 滞在中だった我々はその年の夏
熱心に頻繁にロードアイランド州ニューポートへ通った。
ニューポート沖では第25回アメリカス・カップ防衛戦が開催されていた。
それまで何回にもわたり、米国相手に苦杯をなめてきたアラン・ボンド率いる
オーストラリアが、<オーストラリアⅡ号>を投入
ついにアメリカス・カップを勝ち取った。
それまで5回にわたって防衛を果たしていたミスター・アメリカスカップと呼ばれいた
デニス・コナーは「初めてカップを奪われたアメリカ人」となった。
ワルティグ・マチルダの大合唱の凱旋パレードでは数十万人の人達が
ニューポートのハーバー周辺につめかけた。
そこでカンガルーの大きなペナントを掲揚した<オーストラリアII号>が上架され、
船底の秘密兵器ウイングキールが公開された。
アメリカス・カップ誕生以来、130年以上にわたって米国が守り続けたカップが、
初めて海をわたったのだ。
我々は歴史的瞬間に立ち会った感じだった。
我が家にはデニス・コナーのサイン入りポスターがお宝として壁に掛かっている。
またニューポートで買った帆布で作ったバッグもアメリカス・カップに
関心のある外人さんに凄いと言われた自慢の品だ。
プリントされているヨットは第一回アメリカス・カップで優勝した”アメリカ号”。
この船の名前からアメリカス・カップの名が付けられたそうだ。
話はこれで終わらない。
次の大会、雪辱を果たそうと、デニス・コナーがオーストラリアはフリーマントルに乗り込みます。
インド洋の強風の海面でデニス・コナー率いるスターズ&ストライプス号
(小生もサンディアゴ湾で操縦した)は見事カップを取り戻す事になる。
このときも米国では凄い騒ぎになったそうです。
当然、コナーは「史上初めてカップを取り戻したアメリカ人」になったわけ。
(アンダーラインの部分をクリックして下さい)
ニューポートで買い求めた昔のアメリカス・カップ防衛艇のモデルシップ。
船腹のキールのシェープが古典的で気に入って求めた。
モデルシップは木製で船の長さ98センチ
NY 滞在中だった我々はその年の夏
熱心に頻繁にロードアイランド州ニューポートへ通った。
ニューポート沖では第25回アメリカス・カップ防衛戦が開催されていた。
それまで何回にもわたり、米国相手に苦杯をなめてきたアラン・ボンド率いる
オーストラリアが、<オーストラリアⅡ号>を投入
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/21/61ea487ee9bfcba471b4102c26497ecf.jpg)
それまで5回にわたって防衛を果たしていたミスター・アメリカスカップと呼ばれいた
デニス・コナーは「初めてカップを奪われたアメリカ人」となった。
ワルティグ・マチルダの大合唱の凱旋パレードでは数十万人の人達が
ニューポートのハーバー周辺につめかけた。
そこでカンガルーの大きなペナントを掲揚した<オーストラリアII号>が上架され、
船底の秘密兵器ウイングキールが公開された。
アメリカス・カップ誕生以来、130年以上にわたって米国が守り続けたカップが、
初めて海をわたったのだ。
我々は歴史的瞬間に立ち会った感じだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/a4/91a593bcc9793368ce0a2b1696b9915d.jpg)
またニューポートで買った帆布で作ったバッグもアメリカス・カップに
関心のある外人さんに凄いと言われた自慢の品だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/f4/3224a636a3cd841bbadfd3827c0e056c.jpg)
この船の名前からアメリカス・カップの名が付けられたそうだ。
話はこれで終わらない。
次の大会、雪辱を果たそうと、デニス・コナーがオーストラリアはフリーマントルに乗り込みます。
インド洋の強風の海面でデニス・コナー率いるスターズ&ストライプス号
(小生もサンディアゴ湾で操縦した)は見事カップを取り戻す事になる。
このときも米国では凄い騒ぎになったそうです。
当然、コナーは「史上初めてカップを取り戻したアメリカ人」になったわけ。
(アンダーラインの部分をクリックして下さい)
ニューポートで買い求めた昔のアメリカス・カップ防衛艇のモデルシップ。
船腹のキールのシェープが古典的で気に入って求めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/78/e7404d2dd581180f455bf72bdf31fda1.jpg)