山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

稲垣えみ子『魂の退社』が提起するもの

2016-08-24 20:57:00 | 読書
 アフロヘアの朝日新聞編集委員・稲垣えみ子さんが会社を辞めてから見えてきたものを綴った『魂の退社』(東洋経済新報社、2016.6.)を一気に読む。
 稲垣さんの軽妙な言葉の深さが生きるという根源を問う。
 「スーパーの便利さが実に物足りなくなってしまった。いつでも何でもある現代において、もう<ある>ことを贅沢だと思う人はほとんどいないんじゃないか。むしろ、<ない>ことの方がずうっと贅沢だったのだ。」

                                 
 続けて、「つまり直売所は私にとって、お金がなくても楽しめる場所であったばかりか、<ない>ことの方が<ある>ことよりむしろ豊かなんじゃないか」との指摘は、まったくオイラの経験則と一致する。
 それは、都会の生活より鄙びた田舎そのものの不便な暮らしのほうが豊かであることも実感しているからでもある。

 高給取りだった会社員時代を振り返り「私はそれまでずっと、何かを得ることが幸せだと思ってきた。しかし、何かを捨てることこそ本当の幸せの道かもしれない」というのも、同感だ。

     
 「現代人は、ものを手に入れることによって豊かさを手に入れようとしてきました。しかし、<あったら便利>は、案外すぐ<なければ不便>に転化します。そしていつの間にか<なければやっていけない>ものがどんどん増えていく。」
 「<なくてもやっていける>ことを知ること、そういう自分を作ることが本当の自由だったんじゃないか。」
 ということで、原発事故のこともあって、電化製品などをことごとく廃棄していき、電気代を数百円にしていったのは有名な話だ。



 マスコミは稲垣さんの節約生活につい注目してしまうが、豊かさとは何かという問いに自らが実践していくところが素晴らしい。
 それが景気浮揚がすべてとするアベノミクスへの対峙でもある。
 軽やかな稲垣さんにぜひ過疎に住んでほしいと思わずにはいられない。
      
 
コメント
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