渡辺京二『民衆という幻像』(ちくま学芸文庫、2011.7.)を読み終える。39編のエッセイを集成したものだ。大きく分けて石牟礼道子の生きざま、文明論、文学論、自伝的エッセイ、の4つに分けられる。とりわけ、文学史上石牟礼道子に焦点を当てた功績は大きい。オイラの前頭葉では解読不能な文章ではあったが、それでもなにかがオイラを呼び寄せるのだ。

冒頭のエッセイには渡辺氏の原点が刻まれた体験が綴られている。それは渡辺氏が結核療養所に入院していたとき聞こえた泣き声、娘の体をさする瀕死の母親のやせた腕、その母娘の小さき死の実存に渡辺氏はやるせない歴史の狭間の生と死を見つめる。そのミニマムな宇宙を通して、日本の大組織を巣食う学会・政治家・「革新」政党・マスコミなどの浅薄さを指弾する。あえて異端であることを恥じない頑固一徹な在野の評論家だ。

これらのエッセイからは、わが明治生まれの親父と母親にもつながることとして受け止めた。というのも、戦争と戦後のどさくさに翻弄されたわが父と母は幸せだったのか、という問いでもある。「勝ち組」のエリートとなった長男に期待していた父は結果的に裏切られて晩年はノイローゼ気味だった。農家の娘だった母も脳溢血で倒れ結果的に病院では認知症となってしまう。二人の苦労と歩みとその晩年の慟哭を知るオイラとしては、今は亡き二人からバトンをいただいたと解釈している。

とてもブログには書けない修羅と深淵は、渡辺氏のやるせなさとつながるものを感じる。歴史に埋もれた父と母の奈落の人生に今は直接感謝することはかなわない。しかし、その人生の修羅を踏まえた「現在」という連続の時空を共存することは不可能ではない。それが歴史の・人生のバトンでもあるからだ。つまり、二人の無念の人生の延長線の上にトボトボ歩いているというわけだ。そうした無垢の民衆が戦前から戦後にかけていかに多かったかということを風化させてはならない。そんなメッセージを渡辺氏はこの作品集を通して読者に送っているように思えてならない。

冒頭のエッセイには渡辺氏の原点が刻まれた体験が綴られている。それは渡辺氏が結核療養所に入院していたとき聞こえた泣き声、娘の体をさする瀕死の母親のやせた腕、その母娘の小さき死の実存に渡辺氏はやるせない歴史の狭間の生と死を見つめる。そのミニマムな宇宙を通して、日本の大組織を巣食う学会・政治家・「革新」政党・マスコミなどの浅薄さを指弾する。あえて異端であることを恥じない頑固一徹な在野の評論家だ。

これらのエッセイからは、わが明治生まれの親父と母親にもつながることとして受け止めた。というのも、戦争と戦後のどさくさに翻弄されたわが父と母は幸せだったのか、という問いでもある。「勝ち組」のエリートとなった長男に期待していた父は結果的に裏切られて晩年はノイローゼ気味だった。農家の娘だった母も脳溢血で倒れ結果的に病院では認知症となってしまう。二人の苦労と歩みとその晩年の慟哭を知るオイラとしては、今は亡き二人からバトンをいただいたと解釈している。

とてもブログには書けない修羅と深淵は、渡辺氏のやるせなさとつながるものを感じる。歴史に埋もれた父と母の奈落の人生に今は直接感謝することはかなわない。しかし、その人生の修羅を踏まえた「現在」という連続の時空を共存することは不可能ではない。それが歴史の・人生のバトンでもあるからだ。つまり、二人の無念の人生の延長線の上にトボトボ歩いているというわけだ。そうした無垢の民衆が戦前から戦後にかけていかに多かったかということを風化させてはならない。そんなメッセージを渡辺氏はこの作品集を通して読者に送っているように思えてならない。