いよいよ家の中に昆虫が突入を始めた。その第1号が「カゲロウ」だった。カゲロウは、学校や自然保護団体等の主催で「カゲロウウォッチング」がされている。つまり、川に住む水生昆虫の調査のことだ。そのカゲロウがわが家に来るとは解せないが。
カゲロウが生息しているということは、その水辺や環境がとてもきれいであることの証左なのだ。しかし、最近は農薬がいまだ頻繁に使用されたり、護岸のためにコンクリートで川や用水を固めたりしてきているので、こうした水生昆虫は少なくなってきている。カゲロウがいるということは環境がいいということなので、わが家が自然環境に近いんだな。つまりあばら屋ということか。
きょうは3・11東北大災害の十年目ということで、朝から特集番組が組まれている。しかし、その中身は被害者の悲痛な思いを知らせるのが圧倒的だが、とくに原発にかかわる巨大なマネーのまき散らしによって「豊かさ」を入手しているという掘り下げが欠落しているのでは、という疑念が払拭できない。
復興の問題もコロナ禍の問題もこれからの人間の生き方はどうあるべきかが問われているのに、そこへのアプローチをしないまま現在まできてしまった。政治家の質は日本国民そのものの質の反映にしか見えない。ドイツのメルケルやEUの指導者たちの発言にはそれなりの哲学を感じるが、相変わらず日本は腹芸の世界だ。
カゲロウウォッチングなどという小さなイベントはニュースにもならない。金にもならないカゲロウだがそれが存在すること、もしくは存在しないことの意味を考えていくと問題山積の現代をあぶりだせるのではないかとも思う。