山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

野生のトマトが霜げた!!

2021-11-20 21:15:16 | できごと・事件

 昨夜から冷気が体に沁み込む。野菜は防寒の効果か、無事だった。しかし、野生化していたトマトの葉は霜げていた。致命的だ。畑のトマトハウスはまだ解体していなかったので、生き残ったミニトマトは立派に赤くなっていた。

              

 スコップで掘ろうとしても硬い土から突如芽を出したトマトだった。その生命力に感心してすぐに支柱を立てたが、まだ食べるには至っていない。トマトの実本体はまだダメージがなかったようだが、陽当たりはいいので、赤いトマトを待つだけだ。あえて、雨除けの屋根はつけていない。遅れて実をつけ始めたトマトの一生はこれからもますます厳しいものになるのは間違いない。

    

 隣の畑のゴボウも硬い葉が元気をなくしていたので、急遽収穫することにする。ほんとうは霜が来る前にとっくに掘り上げていなくちゃならないのだったが。和宮様はこの木のようなゴボウを圧力鍋で実に柔らかく仕上げてくださった。鯛本体を食べるほどの余裕はないが、そのアラでゴボウを煮込む和宮様じきじきの料理には舌鼓を打った。さて、この手荒く手がかかるいのちの根っ子をどのように調和させていくか、体力勝負のようになりそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い月を希望の月に変えられるか!?

2021-11-19 22:13:04 | 風景

 きょうは、月が地球の影にはいってしまうという部分月蝕の日だ。買い物帰りの夕方18時15分ころの月をデジカメで撮る。わずかに赤い月が確認できた。そのうちすぐ雲に隠れてしまった。ネイティブアメリカンはこの月をビーバーの毛皮を捕獲するために罠を仕掛けるころなので、「ビーバームーン」と呼ぶそうだ。

    

 21時前に玄関前からフルムーンになった月をとらえる。きょうから、12月4日の皆既日食、12月19日の満月に至るひと月を「蝕の季節」と呼んで、占星術では今の運命が劇的に変わるきっかけとなる月間ととらえるらしい。そういえば、大谷翔平がMVPを獲得したのも、また、立憲民主党代表選挙に4人が立候補演説したのもきょうのことだった。

               

 月と言えば、足利義政を想う。隣で戦乱があり、権謀術策や裏切りが横行する命がけの時代。いつ殺されるかわからない不安を抱えながら月を見るための銀閣寺を建立しそこに逃げ込む。

 「くやしくぞ すぎし浮世を きょうぞ思ふ 心くまなき 月を眺めて」と吐露する。

 その「くやしさ」は、現在に通底する日本文化を育んでいく。月は尖った心を癒していく存在だった。それを現代では月も利潤拡大の市場とする場にしてしまった。宇宙飛行士がもてはやされるが、その背後の宇宙ビジネス・宇宙争奪戦争という背景を見抜かねばならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綿花とは実のことをいう!?

2021-11-18 22:36:21 | 植物

 春に植えた綿の苗からやっとワタができ始めた。スコップが入らないほどの硬い土だったので生きていること自体奇跡のようなものだ。今ごろになってその土に藁や糠などを撒いたが、最初から土づくりからやればよかったのだ。とはいえ、「オクラ」と同じような花が夏あたりからちらほら咲き出してくれた。

                

 本来なら今ごろは白い綿花がはじけた風景がいっぱい見られる時期だったのに、花さえつけることができなかったのもいる。「綿花」とは、わたのことをいう。秋に咲く綿が花のようになるので命名される。たしかに混乱して使用していた。                 

     

 綿のなかに種があるのでそれをとりだそうとするがなかなか取れない。そのくらい綿の繊維が強いのだ。種をしっかり防御しているのが綿花なのだ。その力を人間は衣服に利用してきた。

         

            

 一つの綿花のなかに、10粒の種が包まれていた。純オーガニックコットンのブランド「メイドインアース」を作っているKK「チーム・オースリー」が、在来種の「和綿」を守ろうとプロジェクトを結成した。企業のそうした努力はなかなかニュースにならないのが残念。いま栽培している綿が和綿かどうかさえまだ分からない。植民地ではなく日本で育ててきた綿花栽培の伝統を、その遺産を、継承しようとする趣旨に敬意を表したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国道でシメジを見た!?

2021-11-17 21:02:30 | 食彩・山菜・きのこ

 和宮様が行幸の際に「国道のすぐ脇にシメジを見た気がするのじゃが」というので、その現場に急行してみる。たしかに、ムラサキシメジのような形のきのこだった。三本が並んでいたが菌輪の一部かもしれない。

 そのうちの一本を採取して同定を試みる。この界隈では見たことのないキノコだった。

    

茎は白っぽいが、やや条線が見える。根っこ部分が棍棒状のふくらみがある。フウセンダケにはこういう典型的な形のきのこがある。傘のかたちは饅頭型、その表面はぬめりはなくフェルト状だった。

 キシメジ科なのかフウセンタケ科なのかに絞ってみる。ポピュラーなヤマケイの図鑑2冊(ハンディ版と600頁を越える名鑑)と図版が優れている『北陸のきのこ図鑑』の計3冊で調べてみる。

            

 紫色が強ければムラサキシメジと太鼓判を押したいところだが、色は褐色に近い。このきのこがあった場所は、桜や竹の落葉が多い所だったせいか、根っこは白い菌がそれらの落葉をとらえている。図鑑の写真ではピッタリのものがない。その説明文もぴったりとはいかない。

              

 説明文が実物と100%あっていると、まず同定は成功していると言える。しかし、今回は80%くらいなので確信がない。それでとりあえず、「ハイイロシメジ」(キシメジ科)ということにしておく。食べられるけど、人によっては注意が必要らしい。無味なので醤油・香辛料で味付けする。つまり、あまりおいしくないようだし、中毒もあり得るということなので食べるのはやめる。残念。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅植えの白菜を防寒する

2021-11-16 20:57:19 | 農作業・野菜

 白菜の種蒔きをしたものの、陽当たりが悪くなかなか芽が出なかった。先月末、なんとか芽が出たのであわてて畝に定植する。今月に入って山間部らしく霜が降りそうな寒さが続く。そのため、またもやあわてて刈り取ったススキを周りに漉き込む。また、いただいたわらも併用する。

               

さらに、幅の広い傍観用の不織布がなかったので、手持ちの薄い布を掛けてべた掛けもどきとする。プラポールのトンネル支柱を縦横に配置してみる。来年には結球するのだろうか、まったく自信がない。まずはこの冬を乗り越えることだ。

               

 そして、畝の周りに抜根した茶樹を配置して重しにし防風と防寒を兼ねる。結球した時の白菜の紐縛りや収穫のときはこの茶樹は邪魔にはなるが、踏みつぶしてそのまま肥料にもしようという魂胆だ。うまくいけば白菜漬けできる量がほしいと今から皮算用する。

 白菜は日清・日露戦争の頃から苦労しながら栽培されたらしい。つまり歴史としては新参者だった。白菜は日本の伝統野菜のように日本人の暮しにすっかり浸透していると思い、意外だった。先人たちの栽培の奮闘を心して舌で確認したいものだ。これでなんとか冬越ししてくれ、頼むぞ白菜!?

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コセンダングサ」や「セイタカアワダチソウ」も

2021-11-15 22:05:49 | 野外活動

 焚き火常設場には2mは越える「コセンダングサ」や「セイタカアワダチソウ」をはじめ、剪定した木の枝などが山のように積んであった。いつ、それらを処分するかずっと空と相談していたが、風が強い日が続いていてなかなかGOTOとはならない。ほんとうは雨後の翌日がいいが、予報の雨も降らなかった。やっと、きょうは風がなかったので焚き火を決行する。

         

 安全のためドラム缶かまどでやることにする。火が高くなったときは水をかけたりして延焼に注意を払う。最初は背が高くなった帰化植物を燃やしていく。しかし、草ばかりだとすぐ火がなくなってしまう。そのため、枯れた太い竹をかまどの中央に置いて火をキープする。その後、裏山に散乱する木の枝もかまどに投入していく。すると常設場の周りもどんどんきれいになっていく。

     

 かまどのなかには、ダッチオーブンに定番のサツマイモを入れておく。知り合いからいただいたサツマイモも混じっている。言い訳すれば、サツマイモ栽培で花を咲かせてしまい失敗してしまい自前の芋とはいかなかった。また、前回は炭のようになってしまった焼き芋になったので、今回は早めにダッチオーブンを取り出す。蓋を開けてみるとなんとか食べられそうだったが、火力が強すぎたせいか味は今一つ。じっくりがいいのだが。

     

 最後に、草刈りで剪定していた竹の枝をナタで払い、それを燃やす。細い竹なので活用は限られるがこれもうまく使えば便利なアイテムになる。いつもだと、この火でうどんやそばやコーヒーを作るけれど、燃やすものが多かったので焼きイモだけに絞った。

 残った炭を七輪に移して、やっぱりホッケを焼いたり、ハブ茶の原料であるエビスグサの実をフライパンで炒ってみることは忘れない。夕飯はもちろん、焼き芋とホッケにサラダだった。残骸も宝なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

143年続いた老舗旅館がゆるーいカフェに

2021-11-14 22:38:02 | 旅行・散策

 近所の人と珍しくカフェに行こうということになった。「対秋桜」という旅館がカフェになっているのでそこに行ってみたらお休みだった。それではと、昨年8月オープンした犬居にある「旧松本屋旅館」のカフェに行くこととなった。そこは明治10年(1877)創業の老舗旅館だったようで風雪のたたずまいが圧倒した。いまは経営者が変わり「La vie Libre(ラビリーブル)」という古民家カフェとなっている。「自由な暮し」という意味らしい。

  

 そおっと開けないと歴史が壊れるのではないかと玄関の引戸を開ける。このガラスにはたしか松本屋旅館と吹き付けの文字があったはずだが、いまは消されている。玄関の内側からみた引戸と上段の格子模様が歴史を語っている。お客として内部に入るのは初めてだ。

  

 玄関中央にはレトロな「電話室」と精工舎の柱時計があった。それは以前、散策会でちょっとだけのぞいたときの記憶がよみがえった。電話室にはダイアル式の黒電話があるはずだが確認していない。柱時計は大正3年(1914)の大火のとき宿泊客が運んでくれたもので、以来大切にしているという。

 コーヒーが来るまでの間、きょろきょろしながら天井を見たら今では懐かしい碍子が使われていた。この電線は生きているのだろうか。大正の火災があったので創業時の柱ではないのだろうが、梁はしっかりしている。

       

 このカフェにはネコが9匹いるという。たしかに毛並みといい表情といい種類といい堂々と店内を闊歩している。ネコカフェと言っても良いくらいだ。また、ピアノの隣には立派なワンちゃん(梅太郎くん)がお客を観察していた。お客の犬が入ってくると、横になっていた梅太郎くんが柱を倒すのではないかと思うくらい立ち上がり空気が破れるように吠えたので迫力ある。こういう犬猫ののびやかな振る舞いが魅力なのだろう。お客は若い人が多かった。

 この地域は春野町の中心街であるが、コンビニやファミリーレストランなどはない。だが、こうした拠点ができることで、まったりした時空の漂いを定着してもらいたいものだ。2・3階には書院・欄間・掛軸・扁額などの見どころがあるようだが、次回以降の楽しみとしたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋沢栄一と大川平三郎と王子製紙気田工場

2021-11-13 22:24:20 | 歴史・文化財

 今日の午後、近所の人に誘われて旧王子製紙気田(ケタ)工場倉庫で行われる講演会に出かける。講師は郷土史家の木下恒雄(キシタツネオ)さんだ。郷土史を足と耳と目で発掘して30冊以上の図書を自費出版している。その記憶力といい精力的な好奇心といい郷土の「知の巨人」と言っていい。会場は中学校の校庭の中にあった。

      

 明治20年(1887)に現在の浜松市の気田に王子製紙の工場建設が決まり、地元でも工場誘致の「盟約書」が会社に出される。その写しが会場にあった。名前を見ると地主や村長らしく、その子孫がいまも有力者として活躍しているようだ。

   

 近くの図書館隣の「資料館」には、渋沢栄一が各村長に宛てた要望書の手紙を展示しているが、残念ながら時間的余裕がなくみられなかった。気田工場の中心的指導者は、13歳から栄一の家で書生をやっていた大川平三郎だった。彼は製紙生産を学ぶために欧米を視察し、それを気田工場に生かしていく。日本で初めての木材パルプ製造工場の誕生だ。

   

 大川平三郎の妻は、渋沢栄一の愛人の子ども「テル」である。したがって、二人は親戚であり、起業の同志でもあったのだ。しかし、経営の問題では三井財閥の介入・のっとりがあり、二人は王子製紙から離れていく。このへんの経過については木下さんの得意な内容でもある。

     

 大正2年(1913)、気田工場は廃止・撤廃され、その痕跡はこの製品倉庫跡だけとなった。天井の格子模様も入口のアールデコ風のドアも往時の先進的なデザインとなっており、貴重な文化遺産が遺された。静岡県の指定有形文化財にもなっている。

  

 また、外装の赤レンガも補修の跡が生々しく、画像右上のレンガの積み方は「イギリス積み」だが、下側は混乱しているし、窓を潰した左側はその秩序はなくなっている。外装はレンガだが、内装は漆喰の木造の二重構造となっている。気候変動の激しい山間地の事情から製品を保守しようとする工夫がみられる。このへんも木下さんからかつて聞いたこともあったが、今回は説明がなかったのはもったいない。

    

 さらに、外壁面や窓及び内装のデザインは洋風で、屋根は瓦の和風建築という和洋折衷の建築様式であるのも見どころだ。その鬼瓦は、何と書いてあるのかわからなかったが、江戸文字の真四角な「角字」らしい。それによると「水」を角型にデザインしたようだ。つまり、火災から守ろうという伝統的なお守りだ。これはクイズ以上に解読が難しかった。

 なお、金原明善と渋沢栄一が同時代を生きていたという木下さんの指摘も意外だった。明善は気田工場に近隣の木材を販売していたこともあるが、二人の共通点は社会貢献に尽力していたことだという。「論語」の「仁」・思いやりの思想が経営のなかに貫徹していることを忘れてはならないと強調した。現代の経営者には耳が痛い二人の事業家でもある。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『農業は農業である』って、当たり前ジャン!??

2021-11-12 20:42:41 | 読書

 たまたま、半世紀前に発刊された守田志郎『農業は農業である』(農文協、1971.4)を読み終えた。当たり前のような表題に軽くのぞいたわけだが、読み進めるうちにこれは深い内容であるのがわかった。黄ばんだ年代物の本ではありながら歯ごたえがある。要するに、大都市は農村の犠牲の上に形成されていること、農業と工業とは成り立ちが違うものであって、農業の工業化はあり得ないものであることなどを、飄々と説いているものだった。

      

 「土を軸とする農業の論理」が、つまりその主人公である農民が農薬・機械・ビニールなどの渦のなかに漬かってしまい、何かを失おうとしているのではないか、という警告の本だった。さらに、「農民のみならず私たちの大部分が、ある催眠状態におかれている」と強調する。都市化が叫ばれた50年前、すでにその呪文の危うさを敏感に受け取り、今日の農村と過疎化の惨状を予見していたわけだ。

      

 農民も国民も考えることをはく奪されたマジックは、例えばと、巨大な情報氾濫を担う「電通PRセンター戦略十訓」を紹介している。

 1)もっと使用させろ、2)捨てさせろ、3)ムダ使いさせろ、4)季節を忘れさせろ、5)贈り物にさせろ、6)コンビナートで使わせろ、7)キッカケを投じろ、8)流行遅れにさせろ、9)気安く買わせろ、10)混乱をつくりだせ」と。恐ろしい。

      

 この十訓は、高度経済成長政策を誘導する強力なアイテムの一端となったばかりでない。今ではこの十訓を後方にしまっているようだが、基本的にその歯牙は今も続いている。

 ひるがえってそんな中で、具体的に作者は、国や農協が推奨している「栽培の画一化をやめ、大小による規格化・選果などもやめ」ることも提案している。それは西洋の畑や市場を視察してきた作者の体験も大きい。

     

 どんなに機械化・工業化が進んでも、「主人公は常に農作物であり、家畜である。…農業は農業なのだ。農業は工業ではないし、工業のようになることもできないし、工業に近いものになることもできないのだ。」ということをあえて宣言する。農業に生きるとはそういう自然の営みのなかに自らの人生を配置していくという意味がそこにはある。

 読みやすい洒脱なエッセイではあるが、論理的というより直観的な感性がみずみずしくそして鋭利な刃物のような本志が飛び交う。本書は昭和の古典とも言われるほどの基本的な農業書でもあるらしい。自分は弱い人間だ、間違ったことを農民たちにも推進したこともある、などと吐露してはいるが、そういう作者の人間的な魅力が絡まってくる。近年の野菜工場やスマート農業の流れをどう見るか、お聞きしたいところだった。 

   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年は慎ましく実る

2021-11-11 22:36:26 | 野菜・果樹

 例年だとキウイフルーツの収穫は11月の文化の日前後だったが、温暖化の影響だろうか霜の警報が少なくなった。そのため様子を見ていたが、とりあえず収穫に踏み切った。

 それがなんと、例年の十分の一弱の収穫量だった。やっぱり寂しいなー。8畳の部屋いっぱいに転がったキウイの実に足の踏み場もないほどだったのに。気候変動のせいにしたくなる。剪定のし過ぎか、放任していたほうが収穫は多かったかもしれない。

         

 キウイはリンゴやミカンと違って収穫してすぐ食べられないところが弱点だ。はやる欲望を抑えて熟成を待つしかない。そんなとき、「キウイフルーツ哀歌」というイナエさんの自由詩に出会った。キウイフルーツの堂々たるデビューだがその生育は破天荒のような野生を現わす性質をよく表現している。ジャングル状態になっているもつれた枝をこれから剪定するのは気後れしてしまうのが正直な心境だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする