トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

フイールド活動、自転車操業的の本質「動的平衡」

2020-09-13 | 温故痴新
 フイールドでの作業は「自転車操業だ」と常日頃からボヤキとして自嘲として、また実感として折々に沁みてくるのだが深く考えた事はなく「そういうもの」と言う認識に近い。体力が健在の頃は「楽しみ」であっても老化が進むと「年寄りの脂汗」、つまり苦行に思われてくる。
 それならば「フイールド作業は中止」とすれば解消するかと思えど、少ない年金だけの高齢者では日常の活動や生活の中に断固存在し主な活動が交代するだけである。要は「おまんまどうする!」「慶弔費どうしよう?」等々、切っても切れない生きる事自体そのもの、日々すら自転車操業なのだ。

 書籍購入費が無いから就寝薬代わりに借りだした本を読んでいるのだが、たまたま読んだ中に「そう言う事か…」と思わせる箇所があったのだ。「働けど働けど 我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る」と同じく「手入れをしても手入れをしても不可避的に破壊は進む」フイールドの現実は「エントロピーの増大の法則」でかたがついてしまった。
 福岡伸一著「動的平衡」木楽舎(2009)P245にあった箇所を引用すると「秩序が欲しいが、すべては乱雑さが増大する方向へ不可逆的に進み、その秩序はやがて失われていく。」また「生命はそのことをあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまり『動的平衡』である。」云々。それを可能としているのが水の循環なのだとか。どーりで小生が「水辺」に縛られている理由の一端が判ったようにも思えた。

 小生の作業は著作の生命活動とは異なり現実の「後追い」で「受動的脅迫」や「自縛霊」めいたものなのだが大枠で異質感はない。その上、「子、川の上に在りて曰わく、逝く者は斯の如きか。昼夜を舎かず」(子罕第九)や、誰もが聞いた事があるだろう「色即是空 空即是色」と我が観念は繋がってしまったのだ。「虚無」としか思えない深宇宙さえも「動的平衡」のダイナミックな寂世界と言え、神羅万象「動的平衡」で済ませられる感覚がある。もちろん環境多様性維持や、それによる種の保全もそうである。敢て言うならば「動的平衡」を織り込み済みでなければ「絵空事」にしかならない。

 正しい見解か認識かはどうでも良くて自己覚知ゆえ、すべては己に帰する事で、これが明日のエネルギーともなればバカボンパパのように「それでよいのだ」。著作の「動的平衡」は興味をそそられ面白い内容であったが、小生に話を戻せば「慟哭的閉口」で、やはり自転車操業は解消しないものの現実は何も変わらなくても納得できる時もある。それでも地球は回っているしボヤキは続く。
 ああ、なんともな人生である事よ。明日も泥水の中、四つ這いで草抜き作業だ。誰か「なんで泣きはる泣いてはる⁉よしよし。」と言ってナデナデして欲しい。禿げ頭の二度童でも…と思ってしまう。
 が、「気持ち悪っ!ヘンタイッ!」って言われるのも認識できておるからやはり結果は「慟哭的閉口」なのだった。いいや、道徳的閉口なのかもしれん。まあ、道徳的屁ッコキなら姥捨て山を下っても受け入れてもらえるかも。お粗末。