「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」(井上豊夫著 ㈱コスモの本 2006年)を読む。
この本を読んでみようと思ったきっかけは、youtubeで3年ほど前のこのニュースを見たからだ。
三島由紀夫が組織した「楯の会」に属していた井上豊夫氏が、三島の「檄」を未だ果たさざる約束として捉え、これまでの生き方を綴った本である。
「東京大学では、大学当局が警察力の導入に消極的だったために、状況が泥沼化しました。1969年(昭和44年)1月には安田講堂に立てこもった全共闘と機動隊が激しい攻防を繰り広げた結果、学生全員は逮捕されたものの、安田講堂はいたるところが破壊され、東京大学は1969年の入試中止を発表しました。…東京大学の入試中止でこの年の大学入試は史上最難関となり、受験生たちは志望校を変更せざるを得ませんでした。私も国立一期は一橋大学から神戸大学に志望校を変えましたが、あえなく失敗。合格したのは上智大学と関西学院大学だけでした。」(同書14-15ページ)
今はもう語られることもないが、1969年の大学入試は、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、弱小の東京外国語大学では「暴力学生」が入試を妨害するからという名目で1科目30分という「変則入試」が行われた。4科目で120分だけ、あとは「内申書」で選抜という前代未聞の「奇策」だった。
こうした状況に受験生は狼狽し、志望校のレベルを下げた者も多くいた。私自身も友人が持っていた志願書を1枚もらい、それまで一度も受けたことのないある私立大学を受験した。創始者が紙幣の肖像にもなっている「名門」K大学とこの大学の二つに合格したのだが、入学金の払い込み時期の関係で後者の大学になってしまった。これが人生の岐路だったと感じたのは、入学してすぐのことだった…。「入試のような人生の節目ではカネをケチってはならない」という、惨めな教訓をそこで学んだわけだ。その教訓は、我が子供たちのときには十分に活かされたが…。
ともあれ、1969年の時点では、井上氏と私は、同じような境遇で、同じ場所・出発点にいた。当時の著者は、髪の毛もふさふさしており、眼光の鋭い青年だった。しかしながら、彼自身が「楯の会」の会員であることを広言していたので、親交を結ぶことはなかった。この大学には、こんな「右翼」が跋扈しているのかというのが率直な印象で、そこにいる自分自身にますます嫌悪感を募らせたことを思い出す。
井上氏が「楯の会」に熱中していたとき、私はアルバイトと市井の「中国語講習会」に精を出していた。この中国語講習会には様々な人がいた。三里塚闘争で空港司令塔に立てこもったMさん、のちに某市の市長選にも立候補したOさん、共同通信記者となったTさんどは今でも忘れられない。みんな「新中国」に希望を求め、「思想」を理解する手段として中国語を学んでいた。中国語を「チャイ語」と呼ぶ今の学生からすれば、信じられないことだろうが…。
外国語を学ぶということは、ある目的を達成するための手段に過ぎない。だが当時、「ひとつの中国」というイデオロギーが持ち込まれ、中国語学習は毛沢東の著作などを教材とすることも多かった。「中華民国」(=台湾)という言葉を使うだけで、「反中国的」だと本気で騒ぐ連中がいた時代だ。当然、まともな日常会話など教わっていない。今考えれば噴飯ものの話だった。
この本で井上氏の個人史の空白部分を知ることができたのだが、これまでの彼我の人生は、全くの平行線だったと思い知らされた。「楯の会」から家業(?)の「会社社長」へと優雅に転身した井上氏の人生は、ずっと順風満帆であったかはともかく、華麗な生き方であったことは間違いない。翻って、私はどうだったのか…? ここで触れたくはないが、まさに「人生さまざま」というほかはない。
三島由起夫の「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」という予言は、まさに今日の日本を言い当てている。これらの形容詞に付け加えるべきものは何もない。今となっては、三島の先見性にただただ脱帽するばかりだ。
「日本人であること」「自分の国を守るということ」を忘れたツケは、限りなく大きい。そのことを考えると、絶望的な気分にさえなる。
この点で、初めて著者の生き方と交差したように思えてくる。
(同書より引用)
この本を読んでみようと思ったきっかけは、youtubeで3年ほど前のこのニュースを見たからだ。
三島由紀夫が組織した「楯の会」に属していた井上豊夫氏が、三島の「檄」を未だ果たさざる約束として捉え、これまでの生き方を綴った本である。
「東京大学では、大学当局が警察力の導入に消極的だったために、状況が泥沼化しました。1969年(昭和44年)1月には安田講堂に立てこもった全共闘と機動隊が激しい攻防を繰り広げた結果、学生全員は逮捕されたものの、安田講堂はいたるところが破壊され、東京大学は1969年の入試中止を発表しました。…東京大学の入試中止でこの年の大学入試は史上最難関となり、受験生たちは志望校を変更せざるを得ませんでした。私も国立一期は一橋大学から神戸大学に志望校を変えましたが、あえなく失敗。合格したのは上智大学と関西学院大学だけでした。」(同書14-15ページ)
今はもう語られることもないが、1969年の大学入試は、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、弱小の東京外国語大学では「暴力学生」が入試を妨害するからという名目で1科目30分という「変則入試」が行われた。4科目で120分だけ、あとは「内申書」で選抜という前代未聞の「奇策」だった。
こうした状況に受験生は狼狽し、志望校のレベルを下げた者も多くいた。私自身も友人が持っていた志願書を1枚もらい、それまで一度も受けたことのないある私立大学を受験した。創始者が紙幣の肖像にもなっている「名門」K大学とこの大学の二つに合格したのだが、入学金の払い込み時期の関係で後者の大学になってしまった。これが人生の岐路だったと感じたのは、入学してすぐのことだった…。「入試のような人生の節目ではカネをケチってはならない」という、惨めな教訓をそこで学んだわけだ。その教訓は、我が子供たちのときには十分に活かされたが…。
ともあれ、1969年の時点では、井上氏と私は、同じような境遇で、同じ場所・出発点にいた。当時の著者は、髪の毛もふさふさしており、眼光の鋭い青年だった。しかしながら、彼自身が「楯の会」の会員であることを広言していたので、親交を結ぶことはなかった。この大学には、こんな「右翼」が跋扈しているのかというのが率直な印象で、そこにいる自分自身にますます嫌悪感を募らせたことを思い出す。
井上氏が「楯の会」に熱中していたとき、私はアルバイトと市井の「中国語講習会」に精を出していた。この中国語講習会には様々な人がいた。三里塚闘争で空港司令塔に立てこもったMさん、のちに某市の市長選にも立候補したOさん、共同通信記者となったTさんどは今でも忘れられない。みんな「新中国」に希望を求め、「思想」を理解する手段として中国語を学んでいた。中国語を「チャイ語」と呼ぶ今の学生からすれば、信じられないことだろうが…。
外国語を学ぶということは、ある目的を達成するための手段に過ぎない。だが当時、「ひとつの中国」というイデオロギーが持ち込まれ、中国語学習は毛沢東の著作などを教材とすることも多かった。「中華民国」(=台湾)という言葉を使うだけで、「反中国的」だと本気で騒ぐ連中がいた時代だ。当然、まともな日常会話など教わっていない。今考えれば噴飯ものの話だった。
この本で井上氏の個人史の空白部分を知ることができたのだが、これまでの彼我の人生は、全くの平行線だったと思い知らされた。「楯の会」から家業(?)の「会社社長」へと優雅に転身した井上氏の人生は、ずっと順風満帆であったかはともかく、華麗な生き方であったことは間違いない。翻って、私はどうだったのか…? ここで触れたくはないが、まさに「人生さまざま」というほかはない。
三島由起夫の「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」という予言は、まさに今日の日本を言い当てている。これらの形容詞に付け加えるべきものは何もない。今となっては、三島の先見性にただただ脱帽するばかりだ。
「日本人であること」「自分の国を守るということ」を忘れたツケは、限りなく大きい。そのことを考えると、絶望的な気分にさえなる。
この点で、初めて著者の生き方と交差したように思えてくる。
(同書より引用)