2月14日、中国研究の第一人者として知られた中嶋嶺雄氏が死去した。享年76。国際教養大学学長・理事長として、同大学を目覚ましい発展に導いたことでもよく知られているので、各新聞・メディアでは数々の弔意記事が寄せられている。
私は、中嶋嶺雄氏の講義や講演を聴いたことはないが、その著作の多くには触れてきた。1960年代後半から70年代前半にかけて、中国大陸では「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。「中華人民共和国」は事実上の鎖国状態だったので、「文化大革命」に関する情報は極端に限定的だった。加えて、「中華人民共和国」(中共Mainland China)と「中華民国」(台湾)のどちらが「一つの中国」を代表する政府であるかという、「正統性」をかけた争いが行われていて、日本国内の学者・研究者はその影響を受けて、まっぷたつに割れている状態だった。民間の社団法人「中国研究所」に関係する大学教授・研究者は、中華人民共和国政府が発行する公文書以外の情報を使って中国大陸の実態を研究することは、「反中国的行為」であるとして、相手を攻撃した。安藤彦太郎、新島淳良、菅沼正久等々である。今から思えば噴飯モノのお話しが当時はまかり通っていた。
だが、中嶋嶺雄氏の処女作「現代中国論」は、目次を見ただけで、「日中友好派」の左翼学者とは全く違っていることが分かった。毛沢東や中国共産党を特別視することなく、日中友好という願望に流されることもなく、極めて冷徹に中国情勢を分析していた。こういう学者は数少なく、私の記憶では石川忠雄(慶應大学)、衛藤瀋吉(東大)、竹内実(都立大)くらいではなかったか。
と長々と書いてしまったが、中嶋氏の著作で最も印象に残っているのが、自伝的なエッセイ集である「リヴォフのオペラ座」(1991年)。この本から引用したと思われる記述がウィキペディアに次のように書かれている。
「1953年、清水中学校を卒業し、松本深志高校へ進学。高校入学後、父の経営する薬局の資金繰りが行き詰まり、一人で製薬会社へ直談判に行くが、未成年のため応じてもらえず、債権者に家財一式を渡すこととなった。
当初は、父の後を継いで薬剤師になるために理科系へ進むつもりであったが、家業が暗転したことで世の中の矛盾に気付きマルクス主義に目覚め、社会科学を学ぶために文系へ進路変更した。失恋の影響で高校卒業後、一年間浪人。社会主義革命の息吹に燃えていた中国を専攻したいという思いから、東京外国語大学の中国科を受験して合格する。入試の面接(当時は入試に面接があった)では、「なぜ外大を選んだのか」という質問に対し、「串田先生(串田孫一)がおられるから」と答えた。また、語学をフランス語で受験したが、受験者中最高点だったという」
「リヴォフのオペラ座」の中には、債権者と交渉するために、東京都八王子市近郊の恩方村(当時)を訪れたことが書かれている。「信濃毎日新聞」の「私の履歴書」では、次のような記事が見られる。
『…高校へ入学して間もなくの夏、父の経営する薬局が行き詰まってしまった。開業して25年、手広くやっていたのだが、父の根っからのお人よしが災いし、資金がうまく回転しなくなっていた。
「結局、金融業者に家屋敷を渡すことになりました。父は寝込んでしまいノイローゼ状態。つらかったですね。でもこのままではいけない。何とかしなくてはと真剣に考えました」
そこで高校1年生の身でありながら一人で製薬会社に直談判に行った。八王子の郊外の恩方村まで大正製薬の担当者を訪ねた。親身になってくれたが、結局は良い返事が得られなかった。
「恩方村というのは夕焼けの美しい所で、その日もとても素晴らしかった。それに比べて、社会の壁は暗く、家業の危機をめぐって見られた人の心はなんと醜いものかと思いました」』
たまたま私の父(故人)がこの地域の郷土史家をしていたので、心当たりはあるか尋ねてみたが、結局分からなかった。家業の破産と失恋という苦い体験から、「中国」(中国語)を専攻したいと考えた、その志の高さには驚く。凡人だったら、もっと実利的な分野を選んだのかも知れない。
中嶋氏の死去に李登輝氏が弔意を表したことが伝えられた。中嶋氏と李登輝氏の絆は、「ひとつの中国」という虚妄を否定する一点で堅く繋がっているように思われる。早い死が惜しまれる…。
李登輝元総統、中嶋氏死去で非常に残念
(台北 19日 中央社)
台湾の李登輝元総統の個人事務所は19日、肺炎のため14日に76歳で亡くなった国際教養大学(秋田市)の中嶋嶺雄学長の家族に、李氏が当日中に電話で哀悼の意を伝えていたことを明らかにし、親友の訃報に心を痛め非常に残念に思っていると李氏の心境を伝えた。
中国研究の第一人者として知られる中嶋氏は、東京外語大学学長などを経て、2004年に国際教養大学の初代学長に就任。李登輝氏とは李氏が総統職にあったころからの深い付き合いで、2000年には共著「アジアの知略」を発表している。
写真:2000年2月 退任を控えた李登輝総統(右)から大綬景星勲章を授与される中嶋嶺雄氏
私は、中嶋嶺雄氏の講義や講演を聴いたことはないが、その著作の多くには触れてきた。1960年代後半から70年代前半にかけて、中国大陸では「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。「中華人民共和国」は事実上の鎖国状態だったので、「文化大革命」に関する情報は極端に限定的だった。加えて、「中華人民共和国」(中共Mainland China)と「中華民国」(台湾)のどちらが「一つの中国」を代表する政府であるかという、「正統性」をかけた争いが行われていて、日本国内の学者・研究者はその影響を受けて、まっぷたつに割れている状態だった。民間の社団法人「中国研究所」に関係する大学教授・研究者は、中華人民共和国政府が発行する公文書以外の情報を使って中国大陸の実態を研究することは、「反中国的行為」であるとして、相手を攻撃した。安藤彦太郎、新島淳良、菅沼正久等々である。今から思えば噴飯モノのお話しが当時はまかり通っていた。
だが、中嶋嶺雄氏の処女作「現代中国論」は、目次を見ただけで、「日中友好派」の左翼学者とは全く違っていることが分かった。毛沢東や中国共産党を特別視することなく、日中友好という願望に流されることもなく、極めて冷徹に中国情勢を分析していた。こういう学者は数少なく、私の記憶では石川忠雄(慶應大学)、衛藤瀋吉(東大)、竹内実(都立大)くらいではなかったか。
と長々と書いてしまったが、中嶋氏の著作で最も印象に残っているのが、自伝的なエッセイ集である「リヴォフのオペラ座」(1991年)。この本から引用したと思われる記述がウィキペディアに次のように書かれている。
「1953年、清水中学校を卒業し、松本深志高校へ進学。高校入学後、父の経営する薬局の資金繰りが行き詰まり、一人で製薬会社へ直談判に行くが、未成年のため応じてもらえず、債権者に家財一式を渡すこととなった。
当初は、父の後を継いで薬剤師になるために理科系へ進むつもりであったが、家業が暗転したことで世の中の矛盾に気付きマルクス主義に目覚め、社会科学を学ぶために文系へ進路変更した。失恋の影響で高校卒業後、一年間浪人。社会主義革命の息吹に燃えていた中国を専攻したいという思いから、東京外国語大学の中国科を受験して合格する。入試の面接(当時は入試に面接があった)では、「なぜ外大を選んだのか」という質問に対し、「串田先生(串田孫一)がおられるから」と答えた。また、語学をフランス語で受験したが、受験者中最高点だったという」
「リヴォフのオペラ座」の中には、債権者と交渉するために、東京都八王子市近郊の恩方村(当時)を訪れたことが書かれている。「信濃毎日新聞」の「私の履歴書」では、次のような記事が見られる。
『…高校へ入学して間もなくの夏、父の経営する薬局が行き詰まってしまった。開業して25年、手広くやっていたのだが、父の根っからのお人よしが災いし、資金がうまく回転しなくなっていた。
「結局、金融業者に家屋敷を渡すことになりました。父は寝込んでしまいノイローゼ状態。つらかったですね。でもこのままではいけない。何とかしなくてはと真剣に考えました」
そこで高校1年生の身でありながら一人で製薬会社に直談判に行った。八王子の郊外の恩方村まで大正製薬の担当者を訪ねた。親身になってくれたが、結局は良い返事が得られなかった。
「恩方村というのは夕焼けの美しい所で、その日もとても素晴らしかった。それに比べて、社会の壁は暗く、家業の危機をめぐって見られた人の心はなんと醜いものかと思いました」』
たまたま私の父(故人)がこの地域の郷土史家をしていたので、心当たりはあるか尋ねてみたが、結局分からなかった。家業の破産と失恋という苦い体験から、「中国」(中国語)を専攻したいと考えた、その志の高さには驚く。凡人だったら、もっと実利的な分野を選んだのかも知れない。
中嶋氏の死去に李登輝氏が弔意を表したことが伝えられた。中嶋氏と李登輝氏の絆は、「ひとつの中国」という虚妄を否定する一点で堅く繋がっているように思われる。早い死が惜しまれる…。
李登輝元総統、中嶋氏死去で非常に残念
(台北 19日 中央社)
台湾の李登輝元総統の個人事務所は19日、肺炎のため14日に76歳で亡くなった国際教養大学(秋田市)の中嶋嶺雄学長の家族に、李氏が当日中に電話で哀悼の意を伝えていたことを明らかにし、親友の訃報に心を痛め非常に残念に思っていると李氏の心境を伝えた。
中国研究の第一人者として知られる中嶋氏は、東京外語大学学長などを経て、2004年に国際教養大学の初代学長に就任。李登輝氏とは李氏が総統職にあったころからの深い付き合いで、2000年には共著「アジアの知略」を発表している。
写真:2000年2月 退任を控えた李登輝総統(右)から大綬景星勲章を授与される中嶋嶺雄氏