澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

モンゴル近現代史あれこれ

2015年03月05日 17時02分51秒 | 歴史

 昨日、この一年間、聴講生として学んできた大学から「受講証書」が届いた。同じ大学でこれまで何年かに渡って、「東アジア国際関係史」「東アジア国際政治論」「国際関係論」「現代世界史論」「中国 明清史」「ベトナム研究入門」などを受講してきたが、今年度の受講科目はちょっと変わっていて「モンゴル近現代史」だった。

 私がモンゴルを聴いて直ちに思い浮かべるのは、「蒙古放浪歌」という歌だ。大昔、高校に入学したとき、真っ先に覚えさせられたのが、この寮歌だった。旧制中学の伝統を持つ公立高校だったからだろうか、この歌は戦前から後輩へと伝えられてきたのだと思う。

 「心猛くも 鬼神ならぬ  人と生まれて 情はあれど  母を見捨てて 波越えて行く    友よ兄等と 何時またあわん …」と始まるこの歌詞は、当時の私でも時代錯誤というか、ちょっと異様な感じさえした。どこに「波の彼方の 蒙古の砂漠」があって、何故そこが「男多恨の 身の捨て処」なのか、皆目見当もつかず実感もなかった。戦後日本は、ことさら満州や蒙古について触れることを避けてきたのだから、無知は私に限ったことではなかった。後にこの歌は、加藤登紀子によって「日本哀歌集」というアルバムに採り上げられた。

 というわけで、確たる動機も知識もなく、この科目を聴講したのだったが、一年間モンゴル史を学べたのはとても有意義だったと今は思っている。

 モンゴル近現代史のF教授は、次のようなことを書かれている。

 「いまではモンゴルはだれでも自由にいける普通のくにですが、わたしがモンゴル語を勉強しはじめた1970年には、モンゴルと日本のあいだに国交さえなく、日本をおとずれるモンゴル人は1年におそらく10人もいなかったとおもいます。このような非実用的な言語を専攻する学科が、東京と大阪のふたつの国立の外国語大学におかれていたのは、もちろん日本の1945年以前のいわゆる「満蒙政策」と関係があるわけですが、いまからかんがえると、ずいぶん不思議な気がします。」

 何十年もの間、使うあてさえない言語を、全国で毎年30人ほどの学生が専攻してきた。これはさすがに、利益追求の私立大学ではできない相談だ。しかも、このモンゴル語専攻の学生の中から、世界的に名高いモンゴル学者を輩出しているのだから、まさに「無用の用」と言うべきだろう。もちろん、現在の日本とモンゴル国は、経済援助や資源開発を巡って極めて緊密な関係にあるので、モンゴル語の重要性も大いに高まっている。

 
 受講する学生は、10名程度。20人も入ればいっぱいの教室で行われる授業は、毎回、先生が作成したレジュメに基づき、テーマ毎に話が進められる。モンゴル史の通史のような本は極めて数少ないので、地図、写真などを採り入れた手製のレジュメは、とても貴重な資料となった。ちなみに、私はこのレジュメで初めてモンゴル語というものを見た。