澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

服部 克久氏が死去

2020年06月12日 17時57分36秒 | 音楽・映画
 作曲家、編曲者として知られた服部克久氏が死去。自ら「東京ポップスオーケストラ」を主宰するなど、日本におけるイージーリスニング音楽の普及に貢献した。TV番組のテーマだった「自由の大地」など、大編成オーケストラによる演奏は、まさに独壇場だった。

 訃報を聞いて初めて知ったのだが、谷村新司の『昴(すばる)』はこの人の編曲だったという。歌謡曲には珍しいホルンを使った冒頭部は、言われてみれば服部ならではだ。
 服部良一の子息として何不自由なく育ち、高校を卒業してパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に留学。1950年代半ば、一ドルが360円の固定相場、大卒初任給が一万円くらい、敗戦国の傷跡が残る暗い時代に、服部克久はパリに私費留学したのだから、いかに恵まれた環境に育ったか分かる。

 私がこの人の存在を知ったのは、1980年代後半になってオーケストラによるポピュラー音楽演奏が斜陽になるなか、マントヴァーニやポール・モーリアを継ぐべく、自らオケの設立、演奏活動に乗り出してからだった。NHK FMでもイージーリスニング音楽をテーマにDJをしていて、氏のこの分野の音楽への愛着を知った。

 私自身、ユーキャンがリリースしたCD集「華麗なるマントヴァーニの世界」の企画、選曲に携わったことがあり、ムード音楽、イージーリスニングには人一倍こだわりを持っている。服部克久氏の訃報をきいたとき、「ああ、これで日本のムード音楽、イージーリスニング・ミュージックも終わったな」と思った。残念だが、この種の音楽が脚光を浴びる日は二度と来ないだろう。

 服部克久氏に心よりご冥福を祈りたい。

服部 克久 / 愛おしき人生(2016)[新作初演]


服部克久さん死去 父の偉業引き継いだサラブレッド
[2020年6月12日7時1分]  

作曲家の服部克久(はっとり・かつひさ)さんが、11日午前8時42分、心不全のため、都内の病院で亡くなった。83歳だった。父服部良一さんの偉業を引き継いだ音楽界のサラブレッドとして、ヒット曲の作曲や編曲を数多く手掛けたほか、テレビ番組を音楽で彩るなど、各方面で活躍し、日本の音楽シーンの発展に尽力した。
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日本の音楽シーンを彩ってきた巨星がまた1人、逝った。5月中旬には、公式ホームページで「桜も散り、ゴールデンウイークも終わり、季節は雨のシーズンへと。僕はこの頃になると、音楽畑9に収録されている『緑の詩(うた)』が脳内でプレイされるんですよね。皆さんも古い音楽畑を掘り返して、聴いてみてください」とメッセージを掲載。関係者によると、最近まで近況をSNSにアップするなど、元気な様子だったという。
服部さんは1936年(昭11)、「東京ブギウギ」などヒット曲を生み出し、93年に国民栄誉賞を受賞した服部良一さんの長男として東京に生まれた。パリ国立音楽院に留学後、父と同じ大衆音楽の道を歩み、TBS系ドキュメンタリー番組「新世界紀行」のテーマ曲「自由の大地」や、「ル・ローヌ」「すごい男の唄」などの作曲をはじめ、谷村新司の「昴-すばる-」や、竹内まりやの「駅」など、ヒット曲の編曲を数多く手掛けた。
80年には、山口百恵さんの引退公演の音楽監督も務めた。またテレビでも、フジテレビ系「ミュージックフェア」の音楽監修をはじめ、TBS系「ザ・ベストテン」のテーマ曲を手掛け、CMや社歌も手掛けた。自作を思い通りに編曲プロデュースするアルバム「音楽畑」シリーズは、昨年まで22作に及ぶなど、作・編曲した作品は3万~4万曲を超えるとも言われている。
東京音楽大の客員教授のほか、国際博の音楽プロデューサーなど音楽活動のかたわらで、音楽祭の理事や審査員を務めた。また日本テレビ系「午後は○○おもいッきりテレビ」では20年近くコメンテーターを務めるなど、お茶の間にも親しまれた。
長男の隆之氏も作曲家として活躍し、孫の百音もバイオリニストとして活動中。昨年は、3人で共作した「ル・ローヌ(河)」を発表するなど、音楽一家として知られた。

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