澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「DESTINY 鎌倉ものがたり」を見る

2018年01月31日 20時58分39秒 | 音楽・映画

 さきほど隣県のシネコンで「DESTINY 鎌倉ものがたり」を見る。平日の午後、郊外ということもあり、観客はまばらだった。「三丁目の夕日」の西岸良平の作品と聴いて期待したが、私のような世代(オッサン)には何やら気恥ずかしい気持ちになってしまうような作品だった。

 ファンタジーをファンタジーとして楽しめない不甲斐なさはさておいて、この映画には欧米人とは全く異なる日本人の死生観が描かれているので、共感できるところも多かった。

 先日、西部邁氏(評論家)が入水自殺を遂げたこともあって、「死ねないのが死ぬほど辛い」こともある』という西部のエッセイ(「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」所収)を読んだばかりだった。そのエッセイには次のようなことが書かれている。

この私(西部)には、二十三歳のときから変わらぬ一つの意見がありまして、それは「永遠に死ぬことができないとしたら、それは死ぬほどに恐ろしい」というものです。おそらく、人の人生も人々の時代も「パターン」としては、さほど多くはないいくつかの類型に収斂するか、もしくはそれらの果てしない組み合わせとしてのデリヴァティヴ・タイプ(派生類型)に行き着くことでしょう。そんなものを無限にみせられる苦しみ、苦しみから逃れようとして自裁を企てても絶対に死ねないというさらなる苦しみ、それを思うと、「人間は死ねるから仕合わせなのだ」という命題にだって言い分があるのではないでしょうか。(同書 p.128)

 これを読んだあとでは、「黄泉の国」行きの江ノ電があって、アチラ側には死者が普通の生活を送っているみたいなストーリーには、違和感を覚えてしまう。つまり、この映画は、生と死の境界線を曖昧にして、死を現実のものとして受け止めたくない人々から支持を得ている。「永遠の生」は死と同じくらいに恐ろしいと考えた西部とは対極に位置するのではないか、と思う。
 「戦死者」を一人も出さなかった「戦後」は、不条理な「死」を身近な問題として考えなくても済む70余年だった。しかし、東日本大震災・原発事故を経て、われわれは近未来に対する漠たる不安を拭い去ることができない。そういう背景を重ね合わせると、この映画はノスタルジックであると同時に、奇妙にリアル。もし、平凡な日常が巨大な力で潰されるとしたら、「私はこうして死んで、再生したい」と思わせるような映画か。ちょっと意味不明だが…。
 

「DESTINY 鎌倉ものがたり」予告



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