都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
市民文藝第60号掲載作品
「加奈子」
都月満夫
「いらっしゃいませ」
マスターは、グラスを磨いていた手を休めて、声を掛けた。男が身をかがめて入ってきた。ドアの隙間から、外が見えた。雨が降ってきたようだ。男は頭を二、三度撫でて雨を払う仕草をした。
「あ、信さん、いつもありがとうございます」
男は無言のまま、カウンターの奥の席に座った。
「はい、どうぞ…」
マスターはタオルを客に渡した。
男はタオルを受け取り、雨に濡れた頭と肩を拭いた。
「とうとう降ってきたようですね。今年の夏は、カラッとしたいい天気がありませんね。へへへ」
マスターはおしぼりと水をカウンターに置いた。
「いつもの水割りでいいですか…。えーと、信さんのボトルは…。ありました。へへへ」
マスターは氷を八オンスグラスの縁まで入れた。次にウイスキーを、普通は二フィンガーのところ、心持少な目に入れ、バースプーンで手早く十三回半かき混ぜた。グラスにうっすらと霜がついた。溶けた分の氷を足し、水をグラスの八分目程度入れ、軽く混ぜた。
「はい、どうぞ…。いつもの薄めの水割り…。へへへ」
そういって、マスターは客の前にグラスを置いた。
男の名前は浅井信。よく来る客だが、職業など詳しいことは分からない。名前も本当かどうかは分からない。
「今夜はあいにく天気が悪いようで…。あの時も、ちょうど今夜みたいな雨の夜でした…」
マスターは、遠くの廃墟でも見るような眼で言った。
「あ、いえね、こっちの話ですよ。昔の話なんですが、ふと思い出していまして…。え? 聞きたいですか?」
信さんと呼ばれた客は四十前後で、白髪交じりの痩せた男だ。髪は坊主ではないが、短く刈ってある。細い眼は黒曜石のように、鋭く光っている。普通のサラリーマンではなさそうだ。マスターだけの小さなスナックに来る客にしては、不釣り合いな、上等な背広を着ていた。
マスターの店は、繁華街のはずれの、小路の真ん中あたりにある。店の名は「カクテル」という。一重の赤い薔薇の品種名で、行燈にもその薔薇が描いてある。
マスターは、若いころカクテルの全国大会で、上位入賞をした実力者だそうだ。しかし、こんな店では、その腕前を発揮することはなさそうだ。
信さんは、マスターの話し掛けに答える様子はない。儀式でも始めるように、黙って水割りを飲み始めた。
「聞きたいなんて、言ってない? はいはい、すみませんね。私だって、こんな話、本当はしたくないんですがね。正直、この話を誰かに打ち明けないと、気が狂いそうなんですよ。私もこのところ毎日苦しくて…。今夜は他に客がいないのでちょうどいい。いいですよ。私が勝手に話しますから…。別に、聞いてなくたっていいですよ。へへへ」
信さんは、当たり前のようにマスターの話に返事をしない。水割を二口で飲み干し、グラスを押し出した。
「信さん、相変わらず口数が少ないですね。というか、ほとんど喋らないですよね。男のお喋りはいけませんよね。男は黙って…がいいですよ。へへへ」
マスターは、例の手順でキッチリと水割りを作り、信さんの前において勝手に話を続けた。
「あれは、私が帯広に戻ってきて、ここに店を出す十年ほど前になりますかね。当時、私は札幌のスナックで働いてましてね。いえね。札幌と言ってもススキノじゃありませんよ。定山渓の温泉街にある寂れたスナックですよ。もっとも、若いころはススキノの店にもいたことがありますよ。修行と称して…ですがね。へへへ」
そう言って、マスターは無音の長い溜息をついた。
「私ね、中学生のころは非行少年でして、とにかく暴れてました。喧嘩ばかりしていました。少年院のお世話にもなりました。だから高校も出てないんですよ。中卒じゃロクな仕事はありゃあしませんよ。左官や土木工事なんかの日雇いの肉体労働ばかりですよ。まだ子どもだから、まともな仕事なんかできません。半端仕事ばかりですよ。だから、給料だって安いもんです。今考えると、よく道を踏み外さなかったな…って、不思議なくらいです。人間は人との出会いって大切ですよね。いえね、少年院を出た後についてくれた保護司の先生がいい人でして、ずいぶん面倒を見てくれました。私の言うことを何でも聞いてくれるんです。全部、受け入れてくれるんですよ。そんなことをされたんじゃ、反抗心もなくなりますよ。そんな気持ちになったころ、私を親身になって叱ってくれたんです。やっぱり、あの人の存在が大きかったのかな…。二十三歳のころでした。バーテンダー募集の貼り紙を見たんです。『未経験者歓迎。学歴不問』って書いてありました。『学歴不問』がきっかけで、バーテンになったんですよ。最初は、店内の清掃に、お客様の呼び込みや簡単なメニューの下ごしらえなどを行うこともありました。いわゆる雑用ってやつでして、何でもやらされましたよ。それでも諦めなかったのは、一流のバーテンダーになるんだ…なんて、当時は突っ張ってましたからね。へへへ。しかしね…、いざバーテンになって経験を積んでも、ススキノに店を構えるような大きなところはいろいろと大変でした。決まりごとがうるさくてね。バーテンの世界は上下関係が厳しいんですよ。年齢には関係なく、経験が長い方が先輩って言うシキタリがありまして…。私は下積みが長くて、バーテンになったのは結構遅い方でしたからね、年下のバーテンに指図されることもありました。それに、私ら黒服組は、しょせん脇役でして…。主役は派手なドレスを着たホステスですからね。私の性に合わないんですよ。へへへ」
信さんは、当然のことのように、マスターの話は聞いていない。雨音が小石をばら撒いたように強くなった。
「ああ…、とうとう本降りになってきましたね。実は、その定山渓の店の女の子の一人と良い仲になっちまったんですよ。まあ、よくある話ですよ。その女とはアパートに同棲してましてね。いえね…、その女が勝手に転がり込んできたんですよ。従業員同士の交際は、水商売の世界では〝風紀〟と呼ばれ、タブー扱いされてます。しかし、女の子二人の小さなスナックでしたから、ママともう一人の女の子も承知の上でしてね。大目に見てくれてたんですよ。勿論、客には内緒ですよ。そこそこ気楽に暮らしてましたよ。その女の名前は、加奈子…。そうだ、仮に大場加奈子って名前にしましょう。この加奈子って女は、結構辛い人生経験を持った女でしてね。小学校三年生の時に施設に入ったそうです。母親から虐待を受けていて、強制収容されたそうです。しかし、本人は施設に入る前の記憶が全くなくて、母親の顔も思い出せないそうです。虐待されたことさえ覚えていないそうです。だから、家庭ってものの経験が全くないんですよ。へへへ。そんなこともあってか、初めのころは、飯を作ってくれたり、掃除や洗濯をしてくれたりと、女房気取りで楽しそうでしたよ。私も便利な女だなとは思ってましたよ。しかし、女房気取りでべたべたされてもウザったいじゃないですか…。だから、私はあんまり相手にしないでいたんですよ。その内、加奈子はパチンコをするようになりましてね。初めの頃は、パチンコだけだったのが、競馬・競艇・競輪にも手を出すようになって、レースのある日は、中央区の場外車券売場、ない日はパチンコ屋に入りびたりですよ。客に誘われりゃあ徹夜麻雀だってかまやしないって変わりようです。そのくせ、不思議と男との浮いた話はありませんでした。そこそこのいい女だったんですがね。スタイルだって悪くはなかったですよ。あ、そんなことはどうでもいい…。ギャンブルの話でしたね。いえね…、勝ちゃ良いんですが、とにかく弱いんですよ。賭け事にだって才能ってものがありますよね。博才ってやつがないんですよ。案の定、借金まみれになっちまいました。それでも何とか働きながら返してたんですよ。へへへ」
信さんは、細い眼をさらに糸のように細くして、探るように、ちらりとマスターを見た。
「え? 私はどうかって? 私はあなた、ギャンブルなんてやりませんよ。そんな勝つか負けるか分からないことに大金賭けられますかって話ですよ。ましてや、パチンコなんて負けるに決まってるんですから…。店が儲かるってことは、客が損をしてるってことでしょう。ちょっと考えりゃあ、誰でも分かるってもんですよ。借金してまでやるなんてのは病気ですよ。いえね…、私は若いころは無茶やってましたが、こう見えて、意外に堅実派なもんで…。へへへ」
信さんは、興味がないようだ。糸屑ほどの微かな皺を眼尻に刻み、視線をグラスに落とし、水割りを飲んだ。
「話を戻しましょうか…。同棲し始めて二年ほど経った頃でしたかね。とうとう、にっちもさっちも行かなくなっちまったんですよ。切羽詰まった加奈子は、借りちゃいけない所から金を借りちまったんですよ。いわゆる、闇金ってやつですよね。ある日の午後、アパートに二人で居る時に、男が二人やって来ましてね。見るからにそれモンですよ」
マスターは頬に人差し指を当て、耳元から口元へ線を引く仕草をした。信さんは、眉も動かさず黙っていた。
「後は大概、お解りですよね? ああいう連中の言うことは、テレビや映画と同じです。『コラ! 金が返せないのなら体で返してもらうが、それでもいいか!』と、お決まりの脅し文句ですよ。それでも加奈子は、『一週間、一ヶ月待って下さい』と先延ばしにしながら働いていましたよ。助平な客に、過剰なサービスをして、チップを巻きあげたところで、高が知れてる…ってもんですよ。そんなことじゃあ、間に合いやしません。いくら先延ばしにしたって、返せるわけがないんです。へへへ」
信さんのグラスの中で、融けて丸くなった大き目の氷が、カランと音を立てた。信さんは飲み干したグラスをコースターに置き、人差し指でスーっと押し出した。
「今夜はペースが早いですね。へへへ」
そういって、マスターは水割りを作った。
「もっと薄い方がいいですかね」
信さんは、黙って首を横に振った。そして、グラスを受け取り、ちらりと刺すようにマスターの顔を見た。
「え? 私ですか? 私は何もできやしませんよ。相手は、反社会勢力ってやつですよ? とばっちりは御免ってもんです。触らぬ神に祟りなしって、昔から言うじゃありませんか…。へへへ…」
信さんは、犯罪者でも見るような眼つきで、マスターを見た。そして、一、二度首を軽く振った。
「え? 同棲しておいてそれはないだろうって? はいはい、ごもっとも…。ごもっともですがね。でもね、誰だって私のような立場になるとそうなりますって…。そんな状態だったにもかかわらず、加奈子は一度も私に金を貸してくれとは言わなかったんですよ。それは不思議でした。私も貸しても無駄だって分かってましたから、貸してやるとも言いませんでしたがね。へへへ」
マスターは、分かってくださいよ…というような顔をした。しかし、信さんに同情する素振りはなかった。
「そして、今夜のように雨が降っていた夜でした。その日は店の定休日でしたが、加奈子は珍しく部屋にいました。だから、昼間から加奈子と二人で飲んでいました。その時、加奈子が独り言のように言ったんですよ。『もう、ギャンブルなんか辛いだけ…。楽しいと思っていたのは、最初だけだった。勝っても、負けても、もう何も感じなくなっちゃった。それでも…、やめられない。やめらえないのよ。どうしたらいいのかわからない…』ってね。加奈子は苦しんでたんですよ。そんなことを言われたって、私にはどうしようもないですよ。なんだか、しんみりした雰囲気になっちゃいましてね。そうこうしていると、いつものようにアパートに取り立て屋がやって来ましてね。ところがちょっと様子が違うんですよ。いつもの二人のほかに、幹部って言うんですか? お偉いさんらしい男が来ちゃいましてね。その男が一通り加奈子と話した後に、私の方にやって来ましてね、『お前があいつの男か?』って聞くんですよ。ここに一緒にいて『違う』とは言える訳がありません。認めると、『お前は、あの女の借金の肩代わりが出来るか?』って聞くんですよ。出来る訳ないですよ。その頃には借金が、一千万円近くに膨れ上がっていましたからね。私は無理だと断りましたよ。当然でしょ…。そしたらその男が、ああ…、その幹部の男、今思えば石田なんとかって言う不倫で有名な俳優をちょっと太らせたような、なかなかのいい男でしたね。ぱっと見、優しい顔なのでかえって凄味がありましたよ。へへへ」
信さんは、犬の糞ほどの興味も持っていないようだ。
「あ…、すみません。そんな俳優知りませんよね。話を戻しましょうか…。へへへ」
信さんは、マスターの呼びかけを霧のような静けさで黙殺した。まるで、目の前に透明人間がいるようだ。
「その男が、加奈子の方を見て、『それなら、あの女はワシらがもらう。文句はないな!』って言うんですよ。そんなことを言われたって、私にはどうしようもありませんよ。文句を言ったらどうなるかは想像がつきますからね。風俗にでも売られるのかな…。それも、加奈子の自業自得だ。仕方がないな…って、もう諦めの境地でしたよ。私に害が及ばないのであれば、どうぞご自由に…っていう心境ですよ。へへへ」
信さんの唇の右端が、見下すようにぴくっと動いた。
「え~。それは仕方がないでしょう。薄情なやつだって…。はいはい、ごもっとも…。ごもっともですがね。でもね、水商売の男女の関係なんて、そんなもんですよ。加奈子に惚れてたならまだしも、正直な話、体にしか興味ありませんでしたからね」
信さんは、数種類の亀がお尻で呼吸ができるというほど、どうでもいい白々とした顔をして、溜息をついた。
「え…? やっぱり薄情? はいはい、薄情で結構ですよ。私はそういう男ですよ。そりゃあね、多少は可哀想だなとは思いましたよ。二年間、一緒に暮らした女ですからね。それでもって、男が妙な事を私に言い出したんですよ。『いいか。今後、あの女のことは一切忘れるんだ。そして、他言しないことを誓い、これを受け取れ。百万入ってる』って言うと、私に膨らんだ茶封筒を差し出したんですよ。でもね、嫌じゃないですか…。反社会勢力から訳の分からない金を貰うなんて…。下手したら後で『あの時の百万、利子付けて返してもらおうか…』なんて言われたんじゃ堪りませんからね。私は、丁重に断りましたよ。そしたら、細い体にだぼだぼの赤いジャージを着たチンピラが、ポラロイドカメラで私を撮ったんですよ。そして、その幹部らしい男が、ポラロイド写真の下の余白に、名前を書けって言うんです。運転免許証で名前を確認されましたよ。その幹部は、私の名前が書かれたポラロイド写真を胸のポケットに入れて、『もしも、この金を受け取らなかったら、お前を殺す』って言うんですよ。訳が分かりませんよ。もう、断る訳には行きません。渋々受け取りましたよ」
信さんは、蚊が止まったほどにも反応しなかった。
「そりゃあ受け取るでしょう。『もし今後、今日の事を他言するような事があれば、お前が日本のどこにいても探し出して殺す。おまえの名前と顔を全国にばら撒く。こいつがあるってことを忘れるな!』って、男が胸ポケットに手を当てて言ったんですよ。そのためのポラロイド写真なんだ…って気が付きました。怖くて、震えあがりましたよ。その時、私は漠然とですが、加奈子は風俗なんかに沈められるのではなく、何かもっとやばい事に使われるんじゃないか…と思ったんですよ。もっと酷いことに…。加奈子はある程度の衣服や化粧品をキャリーバッグに詰め込み、そのまま連れて行かれました。加奈子は別れ際も、私の方なんて振り向きもせずに出て行きました。結構気丈な女なんですよ。加奈子は、精一杯虚勢を張ってたんだと思います」
マスターは、蘇える記憶を吐き出すように息をした。
「私は一人残された部屋で、暫くボーっとしてました。ふと我に返ると、氷が背骨に沿って落ちるように、寒気が走りましたよ。明日にでもスナックを辞めて、引っ越そうと思いましたよ。嫌じゃないですか、反社会勢力に知られてるアパートなんて…。何気なく、部屋を見渡すと、加奈子が使っていた小さな鏡台に目が行ったんですよ。そこにはリボンの付いた小さな箱がありました。開けて見ると、以前から私が欲しがっていた時計でした。馬鹿な女ですよ。まったく、大馬鹿な女ですよ。こんなものを買う金があったら、借金の返済に回せばいいのに…って思いましたよ。そう思いながら、ふと考えたら、次の日は私の誕生日でした。こんな私でも、さすがに目頭が熱くなりましてね。涙がツーッと出てきましたよ。私は涙が出たことに動揺しました。その時初めて、加奈子に惚れてたんだな…と気が付きました」
信さんは、ふんと見下すように鼻を鳴らした。それから、水割りを口に含み、探るように、マスターを見た。
「え…。それで反社会勢力の事務所に加奈子を取り返しに行ったかって? 冗談じゃあありませんよ。映画じゃないんですから…。そんな恐ろしいことができる訳がありませんよ。これは現実の、しょぼくれた、ただの男の話ですよ。そんな度胸なんかありませんよ。へへへ」
「翌日、早速スナックを辞めた私は、百万を持って引っ越す事にしました。できるだけ遠くがいいと思いましたよ。それで、明太子で有名な九州の都市まで移動しました。行ったことがない、遠く離れた都会を新たな生活の場にしようと思ったんです。逃げたんですよ。都会の方が他人に紛れていられるかなって思ったんですよ。住む場所も、すぐ見つかりました。男一人が住む小さな部屋ですからね。一段落したので、次は仕事探しですよ。もう水商売は懲り懲りだったので、新聞の求人欄を見ていると、夜型の私にピッタリの、ビルの夜間警備の仕事が載ってました。面接に行くと後日採用され、そこで働くことになったんですよ。それから足掛け八年…。飽きっぽい私にしては珍しく、同じ職場で働きました」
信さんが左手の小指を立てて、マスターの顔を見た。
「え…。加奈子のことですか? 時々は思い出しましたよ。あの時計はずっと付けてました。時計を見ると、加奈子に悪いことをしたなって…思ったりもしました。あっちへ行ってから、新しい女は作りませんでした。あの夜のことを思い出すと、女は懲り懲りでした。それはそれで楽しくはないですが、平凡に暮らしてましたよ。夜間警備の仕事ですから、飲みに街に出ることは滅多にありません。たまに休みの日にキャバクラへ行くことはありましたよ。行くって言ったって、年に数回ですよ。それも、毎回違う店ですよ。顔馴染みにでもなって、あの反社会勢力の男に知られるのが怖かったんですよ。こんな私でもね、キャバクラじゃいい男だって言われるんですよ。え…。誰も聞いてない? キャバ嬢のお世辞? はいはい、失礼しました。へへへ」
「夜警の仕事をやめる一ヶ月ほど前の話です。同僚の、ええと…仮に佐渡としましょうか。こいつが変わったやつで、一流大学を出てるらしいんですが、他人と付き合うのが苦手だってんで、夜警をやってるんですよ。背が高くて、ボーっとしていて、薄気味悪いやつですよ。そいつが、凄いDVDがあるって言うんですよ。どういうわけか、私にだけは話をするんです。どうせ裏モンのAVだろうと私は思いました。こいつから何回か借りたことがありましたからね。へへへ」
信さんは、腐敗臭を嗅いだような顔で首を振った。
「その手のものには興味がない…ですよね。で…、その佐渡がにやにやして、スナッフビデオって知ってるか? って言うんですよ。私が知らないと言ったら、金持ちが娯楽のために実際の殺人様子を撮影したものだ。『SNUFF』の語源は『蝋燭を吹き消す』という擬音語で、殺人を意味している。第三代ローマ帝国皇帝カリグラは狂気じみた独裁者で、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主だった。闘技場で、貴族たちを観客にして人間を猛獣と戦かわせた。そのため飼っているライオンや虎、熊、狼のエサは死刑囚だった。ヒットラーの、大量虐殺だって同じようなもんだ。時に、権力者は残虐性で人を支配しようとする。今はそれが金持ちの変態爺に変わっただけだ…なんて佐渡は得意そうに言いました。今でも、歌舞伎町辺りでは、突然行方不明になる女性がいる。東南アジア方面に、売られているんじゃないかって、もっぱらの噂だ。日本人女性は可愛いので、世界中の恐ろしい組織から狙われているのかも…なんて、シラーっとした顔で言うんですよ。薄気味悪いでしょう。人の命を商品のように売る輩がいれば、それを買って虫けらのように潰す輩がいる。本当なら、やり切れませんね。へへへ」
信さんの眼が、夕暮れの星のように微かに光った。
「私もどちらかと言うとインターネットが好きなもんでね。暇な時はネットカフェで結構見たりするんですよ。海外のサイトとか凄いですよね。実際の事故映像、死体画像などなど…。南米のある国では、麻薬抗争の見せしめのために、処刑映像をネットで流すことは当たり前の様で、当局も困っているとか…。しかし、佐渡にいわせりゃ、それはスナッフとは言わないそうです。スナッフビデオとは、販売目的で、娯楽のために制作されたものだけだって言うんですよ。『ある筋から手に入れて今日持って来てるんだが、見ないか?』って言うんですよ。深夜三時の休憩時間でしたからね、暇潰しに見ることにしたんですよ。私は、どうせフェイクだろうと疑ってかかったんですけどね…」
信さんは、水割りを飲み干して、空になったグラスを揺らして、イライラしたようにカウンターに置いた。
「信さん、ボトルが空になりました。新しいのをおろしてもいいですか?」
信さんは、「いいよ」というように右手を少しだけ挙げた。そして、何かを決意したように眉に力を入れた。
「佐渡がDVDをデッキに入れ、再生ボタンを押しました。全裸の女が、窓のない地下室のような部屋の、真ん中のパイプベッドに、縛り付けられていました。女は薬か何かで動けないのか、しきりに眼球だけが激しく動いてました。私は息が止まりそうになるほど驚きました。加奈子でした。私は席を立ちたかった。でも、何故か動けなかったんですよ。チェーンソーを持った、筋肉隆々の男が立ってました。声帯か舌もやられていたのかも知れません。加奈子は恐怖の表情を浮かべながらも声一つ上げませんでした。佐渡が凄いだろと言わんばかりに、得意げに私の方をチラチラと横目で見てきました。佐渡は、早送りをしながら何か言っていました。内容は言いませんが酷いもんです。カメラは固定されていたようで編集はされていないようでした。私は涙が止まりませんでした。佐渡は、私を見て『そんなに感動したのか?』なんて的外れなことを言いました。私も本当のことは知られたくなかったので『すごかったよ』と返事をしました。そして、DVDを売って欲しいと頼みました。佐渡が、あのDVDをニヤニヤしてみている姿を想像したら耐えられなかった。加奈子が可哀想だったんですよ。佐渡がコピーを作るのが嫌だったので、その場でDVDを受け取りましたよ。そして、逃げるようにビルの巡回に戻りました。翌日、それこそ給料の何ヶ月分かの大枚をはたきました。買い取ったDVDは叩き壊しました」
信さんの眉のあたりに浮かんだ何かの決意は、固い決心に変わったようだ。覚悟を決めたように唇をかんだ。
「それ以来、深夜に仕事をしていると加奈子を感じるんですよ。ビルを一人で見回っていると、後ろからスーッと背中を撫でる空気を感じるんです。振り返っても誰も居ない。それでまた歩き出すと、服の隙間から入りこんでくる空気が背中を上ってくるんです。それは冷たい恐怖ではなく、暖かい懐かしさのある空気なんです。これは辛いです。いっそ、恐ろしい方がいいってもんです。そんな事が数日続き、精神的に参ってしまい、夜間警備の仕事を辞めて、帯広に戻ってきたんですよ。へへへ」
信さんの顔は入ってきた時とは明らかに違っていた。
「帯広に戻ってきても、もう夜間警備の仕事はできませんよ。思い出しますからね。かといって、まともな仕事はできません。幸い、あっちで働いていた間に、結構金が貯まってましてね。夜間警備の仕事をしながら、遊びもしないでひっそり暮らしてましたから…。それを元手に、この店を始めたんですよ。信さんは、この店の第一号のお客さんです。ありがたいことです」
信さんは、そんなお世辞には反応しない。信さんの瞳の奥に、何か不可解な、黒い感情が芽生えたようだ。
「それで、話はこれからが本番なんですけどね。一ヶ月ほど前から、毎晩同じ夢を見るんですよ。加奈子が私に抱き着いて体を締め付けるんです。これがすごい力で、私の体中の骨はマッチ棒のようにポキポキと砕かれるんです。凄まじい激痛なんですが、逆にこれが何とも言えない快感でしてね。気が付くと私は全身の力が抜けて、赤ん坊のように加奈子に抱かれている。安心感さえ覚えるんですよ。そして三日前です。とうとう、加奈子が現れたんですよ。深夜、自宅のベッドでボーッと煙草を吸って火を消しました。すると、白い煙のようなものが目の前に揺れ始めたんですよ。タバコの火は消したし、動きがおかしいんです。まるで生きてるように、煙がゆらゆらと形を作り始めたんですよ。加奈子でした。何かを言いたげに口を金魚のように動かしていますが、舌が無いのか声帯が潰されているのか、声が出てきません。それからどのくらいの時間が経ったでしょうかね。いつの間にか加奈子は消えていたんですよ。恥ずかしい話、私は失禁していました。汚い話ですみませんね。へへへ」
マスターは極まりが悪そうに照れ笑いをした。
信さんの顔は、触ると切れそうなほど鋭く引き締まって、狩りでも始めるハンターのような眼になった。
「いえね。私も夢だと思いましたよ。夢だと思いたかったですよ。しかし、二日前の夜も加奈子はやって来ました。もう私は、加奈子に呪い殺されてもしょうがないと思い始めてましてね。幽霊でも化け物でも何でもいい。加奈子が再び現れるのを心待ちにしてた部分もあったんです。やはり、加奈子は何か言いたげに口を動かしています。『加奈子、何が言いたい? オレはどうすればいい? 何がしてほしい? あの時何もしてやれなくてゴメン。あ…、時計ありがとう、あの時計は大事に持ってる…』って叫んでいました。激しい自己嫌悪が、エレベーターが四十階から急降下したように襲ってきました」
信さんは、もう決意を固めたようだ。眉間のシワをほどき、狂人を観察するように、マスターを見た。
「私は狂っちゃいませんよ。昨夜も加奈子が現れたんです。相変わらず、口をパクパク動かしながら泣いてるんです。大粒の涙がポロポロと音がするほど零れ落ちるんです。私は加奈子に謝りました。『お前が、オレと暮らし始めたころ、ちゃんと相手をしてやれば良かった。そうすれば、お前はギャンブルなんかやらなかった。お前は寂しかったんだよな。オレの気を引きたかっただけだったんだよな。気が付いてやれなくて済まなかった』ってね。私がそう言うと、加奈子は大きくうなずいて、口を動かしたんですよ。今度は、途切れ途切れながらも、聞き取れました。『わ・た・し、あ・ん・た・の・こ・ど・も・ほ・し・か・っ・た・な…』ってね」
マスターが、肩の荷を下ろすようにほっと息をした。
信さんは、細い眼を鷹のようにかっと見開き、銃口のように視線をマスターに向けて言った。
「マスター、こんな話は聞きたくありませんでした。私も聞いた以上は放って置くわけには行きません。赤いジャージのチンピラ、覚えていてくれたんですね。ありがとうございます。私です。しかし、男のお喋りはいけません。男は黙って…でしたよね。ねえ、藤堂一太さん」
そう言うと信さんは、背広の内ポケットからポラロイド写真を取り出して、静かにカウンターに置いた。