都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今回は「水着花魁」を描きました。
夏らしく、水着の花魁を描いてみました。
ところが、その後すっかり気温が下がってしまい涼しい日が続いています。
お盆が過ぎたら、秋風が吹くこちらではもう暑い日はないのでしょうか?
1週間予報では30℃を超える日はありません。
「シマウマ」と呼ばれたかつての水着 日本初の海水浴場と言われる「大磯海水浴場」を描いた錦絵に、水着を着た女性がいます。それがこちら。
1893(明治26)年に出版されたこの絵から、当時の海水浴スタイルを窺い知ることができます。女性が着ている縞々模様の水着は、まるで洋服のよう。
こちらの背景には、短パン姿や裸の男性も。
裸で泳いでいる女性もいます。
もともと海水浴は健康増進・病気回復を目的に行われていたため、ファッション性はあまり重視されていなかったのでしょう。ワンピースタイプの縞模様の水着は「シマウマ」と呼ばれ、大正時代にブームを迎えました。
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最初は医療目的だった?江戸〜明治時代に遡って日本の海水浴の歴史をたどるJapaaan Japaaanマガジン
海水浴のルーツは海水を利用した治療法「潮湯治(しおとうじ)」 レジャーとしての海水浴が日本に広まるはるか以前から、海水に浸かって病気を直す潮湯治(しおとうじ)が、日本では行われていました。平安時代すでに、呼び方は違いますが潮湯治に関連した歌が詠まれています。
潮湯治は江戸時代にも行われており、海水浴と同じように海岸へ出向き海に浸かりながら病気を直していました。潮湯治は皮膚病や神経痛、老廃物の排出や美肌効果もあったとされていました。温泉と同じような効果を求めて塩湯治をおこなっていたようですね。
江戸時代はこのように海に浸かることは行われていました。この他に、海では海女さんも働いていましたし、子どもたちも川遊びとおなじような感覚で海で水遊びをしていたでしょう。しかし、現代のように海水浴という言葉はまだありませんでした
日本初の海水浴場「大磯海水浴場」の誕生! 明治時代、医師であり政治家でもあった松本順(まつもとじゅん)が、海水浴の効用を蘭書で知り、長崎で蘭医をしていたポンペから本格的な西洋医学を学びます。そして松本は1885年、神奈川県大磯の照ヶ崎海岸に医療目的としての海水浴場を、日本で初めて開設することとなります。
それまで、先に述べた潮湯治は行われていましたが、日本ではまだ医療として確立したものではなかったためか、大磯に海水浴場を開設するにあたって、周囲の賛同を得ることに苦労したそうです。建設資金の不足などは会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの協力も得ていました。
大磯海水浴場は医療施設であったため、治療目的に来る人たちが養性をとるための旅館「祷龍館」も併設。この祷龍館は病院としての役目も果たしていました。
海水浴場があり宿泊施設がある。まさに私達が知る海水浴場の始まりです。現在、大磯は「海水浴場発祥の地」と呼ばれ、松本順は「海水浴場の父」と讃えられています。 |
「シマウマ水着」