◆端午の節句は女子のお祭だった
男子の健やかな成長を願う5月5日の端午の節句。元々は女子のおまつりだったことをご存知ですか。
端午の節句は、旧暦ではちょうど田植えをする頃(現在の6月初旬)にあたります。1年のうちで最も重要な節目とされ、神事を行い1年の豊作を祈ったそうです。その頃、田植えは命を産みだす女子の仕事とされていました。5月5日のこの日、女子は慎み深い生活をおくり、邪気をはらう香り高い薬草「菖蒲」を浮かべた湯で身を清めるなどして、田植えに備えたのだとか。このことから、端午の節句は別名「菖蒲の節句」とも呼ばれ、穢れを祓う日ともされるそうです。
時代は武家社会へとかわり、「菖蒲」と武事を尊ぶ言葉「尚武(しょうぶ)」が「勝負」と同じ音で読まれることから武士の間で縁起が良いとかつがれはじめ、やがて、武家の男子の成長を祝う行事へと変化してゆきました。そして、江戸時代に、年中で重要な日を定めた五節句のひとつとなったことから、庶民の間でも端午の節句を祝う風習が広まり、私たちが知るスタイルへとかわっていったのです。
◆ 坂田公時(さかたのきんとき)(956~1011年)
平安中期の武将。名は金時とも書く。幼名金太郎。その出生および生涯はほとんど伝説化しており、どこまで史実かは不明。
童謡「金太郎」や、赤い腹掛け(腹掛けを金太郎と云う)でおなじみの金太郎とはどんな子供だったのでしょう。当初は「怪童丸(かいどうまる)」(芝居によって作られた)と呼ばれていたようです。
足柄山で生まれた金太郎は、赤い体をした大変力の強いたくましい子供でした。
いつも大きなマサカリを肩に、獣や魚、鳥などを仲間として山中を裸で駆け回って遊んでいました。
相撲を取って熊を投げ飛ばしたり、 暴れんぼうの大鯉を捕まえたり(この絵を鯉金という)、金太郎は山でも大将でした。
けれども金太郎は決して威張らず、いつも動物達をかわいがりました。
お弁当は山の仲間に分けてやり、谷を渡れない動物のために木を倒して橋をかけてやりました。
力とともに知恵と勇気をもった正義の味方だったのです。
伝説ではやがて成長した金太郎は都に上り、平安中期の武将源頼光(948-1021)の郎党として渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに「四天王」と呼ばれ、大江山の酒呑童子退治に活躍したとされる。のち九州の賊を討伐するため向かう途中、現在の<msnctyst w:st="on" addresslist="33:岡山県勝央町;" address="岡山県勝央町"> 岡山県勝央町
初節句にこいのぼりを掲げる風習に発展しました。菖蒲(勝負)の葉を剣に見たてて、虫干しも兼ねてか家伝の武具を飾ったりして祝いました。始めは幟に金太郎の絵を描きたてていました。武者人形や金太郎人形が現われたのはひな人形飾りに同調したのでしょうか。後年のことになります。
◆ 端午の節句に、何故金太郎?
前回の鍾馗 で書いたように、鍾馗の鬼退治と金太郎(坂田公時)の酒呑童子退治結びついたのだと思います。さらに、鯉をつかまえた話と「登竜門」の話しが結びつき、滝で金太郎が鯉を抱きかかえるように捕らえている絵が描かれたのではないでしょうか。この図柄を「鯉金」といいます。
この金太郎の話が芝居で大受けとなり、庶民の知ることとなり、中国の鍾馗と金太郎が結びついたのだとしたら、日本人が真似が得意だったのは、昔からだったのでしょう。
5月5日は端午の節句です。今はこどもの日ですね。端午の節句が現代のスタイルに至るまでの歴史と祭文化にふれながら、金太郎飴でも舐めましょうか。