年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

不平将軍

2009年04月26日 | 福神漬
不平将軍
不平将軍と言う言葉あった。明治期の軍人の中には、新政府の政策に反対するが故に<不平>将軍と呼ばれた人々がいた。

 彼等の中には自らの政治的意見を発表する手段のために、新聞の後援を行った人々もいた。陸羯南が明治22年に発行する新聞日本の後援者の中にはこうした<不平将軍>連もいたのである。前年末の会合時に団団珍聞と言う風刺新聞を発行していた野村文夫が参加している。この野村の参加で新聞『日本』の発行所が神田雉子町となる。団団社の軒先を借りて発行する事となった。団団珍聞には福神漬を命名した梅亭金鵞が参加しているので『日本』の人たちは福神漬を食べていた可能性がある。梅亭金鵞(明治26年死去)なお正岡子規の医者は神田雉子町の医者だったと言う。

福神漬の周囲は反明治政府・反薩長の人たちと親江戸派の人たちが集まっている。ただ梅亭金鵞は明治22年2月13日に倒れたので新聞日本社の人達とは縁がなかったかもしれない。
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