年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ミスマッチ

2009年04月27日 | 築地市場にて
ミスマッチ
鶯谷駅の直ぐそばに風俗のホテル街があって、このホテルに囲まれたところに正岡子規の住んでいた子規庵がある。昼からホテルに用のある人・俳句を好む人が歩いている中、根岸を巡って福神漬の旧跡を求めて探すのはどう見ても不審者としか見えないだろう。
 根岸は石神井川をせき止めて、入谷・浅草の田んぼに供給する音無川があって上野の山もあり、入谷の田んぼに囲まれて江戸時代は商家などの火災時の別宅として発展したと言う。なにせ江戸は3年に一度くらいの割合で大火があったのだから別宅の必要性は生じる。
 たくわん漬が江戸市中で発達したのは重石を載せた一年分の沢庵漬が火災時移動の妨げになるので練馬の人たちから下肥と交換で少しづつ供給されていたと言う。
 根岸の向こうは三河島になるのだが『あの子とあの子は三河島』という川柳があったのだが、中国大陸から日清戦争後日本国内に入った白菜のため、漬け菜として『三河島菜』は絶滅した。今は絵でしか残っていない。三河島菜=いい菜漬け=イイナズケ=許婚=婚約者。
 漬物の歴史を調べるには川柳や俳句も知る必要がある。
コメント
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