戊辰戦争と明治教育 秋山 保著から
続徳太郎(豊徳)
佐倉藩儒士
天保2年生まれ明治23年10月病没(63歳)
松林寺 続の菩提寺か?
佐倉市弥勒町93-1
花香恭次郎が戊辰戦争の混乱期を避難する場として佐倉を選んだと思われるが彼の11歳の頃である。今の船橋市八木谷に知行地があった長井家の意向が反映していた。長井昌言は谷中にある花香恭次郎の墓碑によると後見役を果たしていたようである。
明治2年花香は東京に出てくる。つまり佐倉には1年ほどしかいなかった事になる。この時期、続徳太郎は佐倉藩の重役として、旧幕臣を脱走して千葉で兵をあげた江原素六と攻撃してきた西軍との間の交渉に没頭していた時期であるので、花香を教育することはなかったと思われる。しかし福島事件の予審の記録に出てきている位なので多少の影響があったと思われる。洋学の盛んな地で藩儒士であった続の行動をどの様な目で見ていたのだろうか。維新後、儒学はすたれて佐倉での続の活躍が消えている。経歴から花香と続は同時期に死去している。
明治の外交官として知られている林 董(はやし ただす)も続徳太郎の所で学んでいた。
続徳太郎(豊徳)
佐倉藩儒士
天保2年生まれ明治23年10月病没(63歳)
松林寺 続の菩提寺か?
佐倉市弥勒町93-1
花香恭次郎が戊辰戦争の混乱期を避難する場として佐倉を選んだと思われるが彼の11歳の頃である。今の船橋市八木谷に知行地があった長井家の意向が反映していた。長井昌言は谷中にある花香恭次郎の墓碑によると後見役を果たしていたようである。
明治2年花香は東京に出てくる。つまり佐倉には1年ほどしかいなかった事になる。この時期、続徳太郎は佐倉藩の重役として、旧幕臣を脱走して千葉で兵をあげた江原素六と攻撃してきた西軍との間の交渉に没頭していた時期であるので、花香を教育することはなかったと思われる。しかし福島事件の予審の記録に出てきている位なので多少の影響があったと思われる。洋学の盛んな地で藩儒士であった続の行動をどの様な目で見ていたのだろうか。維新後、儒学はすたれて佐倉での続の活躍が消えている。経歴から花香と続は同時期に死去している。
明治の外交官として知られている林 董(はやし ただす)も続徳太郎の所で学んでいた。