年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

キッコーマンの社史から

2010年09月12日 | 築地市場にて
キッコーマンの社史から
行徳にあったキッコーマンの工場の件で高輪台にある味の素食の文化センターに行った。社史には殆ど記録が無く目的は果たされなかった。戦前、キッコーマンには労働争議があった。発端は醤油を入れる樽製造労働者の待遇改善から始まった。この後日本労働運動史に残る争議となった。戦後醤油容器が樽から缶とかビン・プラスチック容器となり、樽製造労働者は転職せざるを得なかった。若い人達は他の仕事に高度成長の人手不足を補うため転職して行ったと思われる。しかし高齢の人達は漬物工場での樽修理の仕事を見つけ従事するようになった。漬物用のプラスチック樽は重石をかけるため、丈夫でなければいけないので高価となってしまって普及するには時間がかかった。この間の漬物労働者の不足と樽修理の仕事と言うことで樽職人の転職先となっていた。あまり知られていない事実である。修理の樽が減り、プラスチック樽が丈夫となり、さらに価格が低下すると、普及が促進された。今では4斗の新樽は酒樽しか見えなくなってしまった。
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