浦賀奉行
海の関所の役割を果たしていた下田奉行所から浦賀奉行所と移転となったのは享保五年(1720)のことである。急に示された奉行所の位置案は西浦賀・東浦賀に混乱をもたらした。特に干鰯問屋(干した鰯を肥料に用いる)で繁盛していた東浦賀の町民の反対は強く、結果として西浦賀の奥まったところに浦賀奉行所が設置された。下田から63軒、西浦賀が22軒、東浦賀が19軒と全部で104軒の廻船問屋が設置された。彼等は浦賀奉行の船番所の下働きの機能を担っていた。水野忠邦の改革で問屋は一時禁止されましたが、東浦賀の干鰯問屋は復活したが西浦賀では塩問屋の復活の交渉に浦賀与力たちの力があったようです。
函館で戦死した中島三郎助は妻や遺児の行く末を浦賀の塩問屋に依頼したのはこのような事情があったようです。
神奈川県横須賀市浦賀愛宕山公園に中島三郎助招魂碑がある。この碑は中島三郎助の23回忌ということで建設計画がなされた。西浦賀の疲弊した嘉永年簡に中島が塩を西浦賀で扱えるように努力した。このことから西浦賀の塩問屋と中島の関係が始まった。
函館の最後の戦闘前。中島が家族の将来を浦賀の塩問屋大黒屋臼井儀兵衛に依頼したのはこの様な関係があった。
関東における塩は行徳の塩とあるときには競争となるが天保の改革までは表向き棲み分けが出来ていたようにみえる。天保の改革で株仲間が禁止され塩問屋が混乱したと思われる。行徳の塩と浦賀との関係はどのように変化したのだろうか。
海の関所の役割を果たしていた下田奉行所から浦賀奉行所と移転となったのは享保五年(1720)のことである。急に示された奉行所の位置案は西浦賀・東浦賀に混乱をもたらした。特に干鰯問屋(干した鰯を肥料に用いる)で繁盛していた東浦賀の町民の反対は強く、結果として西浦賀の奥まったところに浦賀奉行所が設置された。下田から63軒、西浦賀が22軒、東浦賀が19軒と全部で104軒の廻船問屋が設置された。彼等は浦賀奉行の船番所の下働きの機能を担っていた。水野忠邦の改革で問屋は一時禁止されましたが、東浦賀の干鰯問屋は復活したが西浦賀では塩問屋の復活の交渉に浦賀与力たちの力があったようです。
函館で戦死した中島三郎助は妻や遺児の行く末を浦賀の塩問屋に依頼したのはこのような事情があったようです。
神奈川県横須賀市浦賀愛宕山公園に中島三郎助招魂碑がある。この碑は中島三郎助の23回忌ということで建設計画がなされた。西浦賀の疲弊した嘉永年簡に中島が塩を西浦賀で扱えるように努力した。このことから西浦賀の塩問屋と中島の関係が始まった。
函館の最後の戦闘前。中島が家族の将来を浦賀の塩問屋大黒屋臼井儀兵衛に依頼したのはこの様な関係があった。
関東における塩は行徳の塩とあるときには競争となるが天保の改革までは表向き棲み分けが出来ていたようにみえる。天保の改革で株仲間が禁止され塩問屋が混乱したと思われる。行徳の塩と浦賀との関係はどのように変化したのだろうか。