時代小説の小説家を目指す指南本で歴代の京都町奉行所の記録があった。長井筑前守昌言が元治元年(1964)11月から慶応元年(1965)11月まで堺町奉行所でその後京都町奉行所へ赴任し12月に京都町奉行所を退任しているとあった。子孫である鶯亭金升日記にも京都町奉行所のことは書かれていない気がする。堺町奉行所の関連の記録で茶道の縁のある堺市の南宗寺には長井昌言の名前がある灯篭があるという。彼は京都町奉行所へは多分赴任していないだろう。慶応元年の暮れの京都は平穏だったはずが無い。開国派だった長井が攘夷を唱える宮中を押さえることは出来ないからど思われる。幕末の時代劇で長井昌言が出ないのはこの様な理由だろう。ただ維新史料綱要では記録として残っているが京都本では歴代の京都町奉行所としては消えているほうが多い。
元治元年(1964)から慶応元年の京都の政治状況がわからないと長井が何故赴任しなかったか解らないだろう。長井家の子孫の話では大阪町奉行になった戸田伊豆守氏栄は安政4年(1857)2月から安政5年(1858)年8月死去までとなっている。この時期大阪でやはり外交問題があったようだ。歴史書では病死となっているが子孫のブログではその様な死に方ではなく過労死だったかもしれない。町奉行は激職でその攘夷問題を抱えて楽な勤務とは思えない。記録に残る大阪町奉行としての戸田の業績としては種痘を承認したようだ。