年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

英雄論と犬死論の間で

2019年04月25日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和30年暮れ、父が死去した。一家を支えるため母は父の代わりとなって働いた。同業者も父への友情から過度の競争を仕掛けてくることも無く昭和44年春になった。この年父を生んだ老母が無くなった。多分90歳を超えていた。大学の卒業試験も終わり、後は漬物修行を求めて関西に行く予定だった。出発まで2から3日前、埼玉の田舎(今は東京の通勤圏)から危篤と言う電話があった。関西に行ってしまうのでとりあえず状況把握するため田舎へ向かった。今は春日部市になっているが当時は春日部から先は単線の野田線だった。この野田線は野田の醤油産業を支えている電車である。駅から歩いて20分ほどの畑の中にある父の実家へ行った。

 寝ている老母の様子を伺うと。医者の見立てでは処置は出来ないという。どうしてと尋ねると(老衰)と言う。今なら点滴で生かすだろうが何故だか親族の意見はあきらめの方が強く、唇に水を含ませ、さらに少し飲ませるしかなかった。電気毛布で体を温め、自然死を待った。2月初めに寝込みおよそ二十日後死去した。最後の呼吸は20日間の中ですぐ気がつくほど大きな呼吸だった。その後静かになったのでチリ紙を鼻先に垂らしたが揺れなかった。あわてて家族を呼び確認し、医者を呼んだ。何も食べなくとも20日は生きた。

 葬儀の席で死んだ老母の話が次々と出て、特攻で死んだ3男の話しが出ていた。詳しくは私は知らなかった。ただ親族が私に話さなかったのはある理由があったと今では確信している。戦後から多分今に至るまで親族の中で一番健康で師範学校に入った知能優秀な3男が特攻で死去し、なお戦後に特攻の状況を知るに従って(犬死)という気持ちが強かったのだろう。先の戦争で多くの兵士は上官の不当な命令で死去し、命令を下した上官が生き残っている。むなしさが親族の中で共有されていたので多くを語ることなく通夜の席で真実を知った。その後もまだ犬死論は心の中で生きていて10年ほど前まで他の人に特攻した叔父がいるということを語ることなく今日に至る。

 個人としてはまだ犬死論と英雄論との間は整理されていないが最近出版された井上義和著(未来の戦死に向き合うためのノ-ト)と言う本は共感するところが多く、前に向かう方向が見える気がする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする