年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

思い話が始まるが

2019年04月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

5月3日に慰霊祭に参加する。先送りしていたので築地のことが終わり、豊洲も終わりになったら先送りは止めようと思っていた。どうせ健康寿命的には後数年かもしれない。いけるときに行かないとふと思った。それは昭和30年末に死去した父の謎解きの話となる。母に話した父の話として聞いている特攻で死んだ叔父の話である。何を子供たちに伝えようとしていたのだろうか。その当時は犬死論が多かったようだ。世間の論調と違って父は父なりに実弟の死についいて何か言いたかったこともあったのだろう。薄々感じていたが深く考えると生活が遅滞するのでまた先送りしていた。人生の時間も少なくなり遅滞しても誰にも迷惑をかけないようになったきた。調べて記録を残すようにあの世から言われている気がする。

 学徒出陣の本を読んで当時の状況は少しわかったきた。どうして死を予定する陸軍特別操縦見習士官へ応募したのだろうか。全国で陸軍は1万人、海軍は5万人と言う。陸軍の一期合格者は1800名であった。そのうち特攻で死んだ特操1期生は300名以上であった。靖国神社の遊就館に特操1期生の像があり、台座の下にある名簿に名前があり、特攻で死去した印があった。

 記録によると5名が台湾から沖縄嘉手納沖の米軍艦隊に特攻したのだが誘導した飛行機に搭乗したパイロット1名も帰還しなかった。この人は特攻の記録に残っていない。何か不可解。

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平成の築地の思い出。

2019年04月18日 | 宅老のグチ

外国人観光客を除くと年寄りの多い築地は人出が5月連休に多いとは思えない。ただ昔と言っても20年ほど前、xjapanのヒデの築地本願寺の5月連休中の葬儀は今でも記憶に残る。喪服の若い人たちが整然として行列し本願寺へ向かった。後の情報では勝どき橋から佃大橋まで行列が続いたという。さらに霊柩車が汐留の高速にのると言うことで本願寺から築地市場を超え様々な赤く・黄色く・まだらに髪を染めた喪服のロングドレスを身にまとった若い女性が新大橋通りの歩道に並んだ。今でもこの光景は鮮やかによみがえる。あの時10代後半の人たちも40歳前後となりどうなったのだろう。もう一度築地本願寺で年回忌をやらないだろうか。あの喪服のファンがどう変化したのだろうか。平成の築地の思い出がもうじき歴史となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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