年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

藤岡屋日記嘉永3年10月頃

2019年08月18日 | 福神漬

自由民権運動福島事件の始まりの始まりは花香恭次郎の誕生の過程

藤岡屋日記 嘉永3年10月から11月

嘉永3年9月25日

浦賀表より罷り帰る 下曽根金三郎。同日 初御目見 金三郎惣領 下曽根治三郎助

    10月24日

銀 十枚 下曽根金三郎

浦賀表御装備筒相試し等、世話仕、骨折り候につき、これを下さる。

   11月13日

山田奉行 山口丹波守直信(嘉永3年9月より安政5年1月・宇和島藩主・伊達宗城の実兄)

 名代戸田伊豆守 (この頃江戸に戸田氏栄が居たということか)

逃亡者高野長英が江戸に潜伏し、南町奉行の配下の人達に嘉永3年10月末日に撲殺された。当時の逮捕の指針としては生け捕りが本来の目的であるが冤罪で投獄された高野を生きて逮捕したら、微罪放免させてはいけないと町方は考えていた気がする。放火という江戸時代の大罪で逃亡していた高野長英を匿った人たちは遠島とか押込めの処分だった。表向き高野は自殺ということだが町方は最初から殺すつもりだったと思われる。当時の市中の噂では逃亡の支援した内田弥太郎は取り調べがあっても、処分はされなかった。

ここから後の経緯から想像すると、南町奉行と戻った遠山景元 と筒井政憲(元南町奉行)の力があったと思われる。この当時浦賀で下曽根金三郎の配下で内田弥太郎が海岸防備の仕事をしていた。弘化5年から嘉永6年まで浦賀奉行は戸田伊豆守氏栄だった。ぺリ-の国書を受け取った戸田氏栄は積極開国を表明していたため、間もなく閑職に左遷された。この間に生まれたのが幼名鉄丸・後の花香恭次郎である。恭次郎の恭は内田弥太郎の最初の名前内田恭からとったと思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする