12日新型肺炎忌避で11日から始まった銀座ア-トホ-ルでの知覧特攻平和会館の企画展に向かう。狭い会場に10名以上の見学者。予想より多い。笠間・土浦などの会場でいつも感じていた虚しさを今日も感じる。
家に帰ると知覧の遺族会から今年の案内が来ていた。年々高齢化し、直接見聞きした遺族が減る状況で何を残して、次に伝えるかを遺族は日々問われている。
ごく最近に特攻兵士の遺族となった身では戦後の肩身の狭かった遺族の記憶しか知らない。語ることもなく、記録することもなく75年終わった特攻遺族もあるだろう。同期が特攻死し生き残った戦友は仲間を裏切った思いが残って生きていた人もあるだろう。特に先生を養成する師範学校出はいかに戦後を教師として指導したのだろうか。
埼玉の父の実家の墓地の墓石に刻まれた年号は古いもので宝暦があった。1700年頃になる。関東平野の小高い土地の下には過去の遺跡もあって発掘もあった。利根川の流れの変遷で過去の被害が地形と記憶に残る。戦後間もない利根川の栗橋付近からの氾濫は今でも映像が残っていて、多くの被災者を出した。
戦後75年。危うい平和だった。でも平和という既得権が蔓延し、かえって危険な状況になったかもしれない。強力な原子爆弾が長い間広島・長崎の悲惨者を見て、紛争で持っていても使えない過去だったが威力の弱い原爆がいま開発中という。小人数の軍隊が破れかぶれのゲリラ戦で核兵器を使う007シリ-ズ映画のような危機かもしれない。飛行機による特攻は9・11のニュ-ヨ-ク攻撃の前例となった。