新型肺炎で人ごみの中を避けて、身近い人に昔話を聞く。東武野田線の武州川辺駅と江戸川橋梁のことを聞く。武州川辺駅は昭和25年に廃止となったが4歳だった私の記憶に今でも残る。当時の画像がネットで見ることができる。父か母について、京浜東北線大宮駅で野田線に乗り換えて、駅に着いた。電車が単線ということを知った4歳の記憶と同じであった。でもちょっと画像と記憶が違う。今の南桜井駅より江戸川に近い駅だった。また特攻した叔父の残した野田線江戸川橋梁の絵は戦後に川辺小学校に残っていたというがどうやら絵が処分されたようである。想像の中で叔父の描いた江戸川橋梁の中に庄和町の象徴である大凧が青空に浮かび、橋梁の上を電車が走っている風景が想像できる。過去の記憶が美化され、合成され今思い出す。
子供の記憶でも高い江戸川の土手を上ると東武野田線の鉄橋が見え、土手の上から野田の風景を見ても、空しか見えなかった。今は高層の建物があるが昭和の20年代は野田のキッコ-マンの建物以外は低かった。
今度土手の上に行って、子供時代の記憶の誤りを修正しようかと思う。なぜ叔父が鉄橋の風景を母校の小学校に残したのだろうか。昭和20年2月下旬に茨城の陸軍飛行場で戦闘機隼を受け取り、各地で訓練しつつ、4月に台湾に到着した。家に残る陸軍飛行204戦隊の集合写真は台北紀州庵で撮影したものである。誰が実家に届けたのだろうか。