今年も南鹿児島市主催の特攻慰霊祭の案内状が来た。もう10年は来ている。遺族の新参でまだ雰囲気にはなれない。家族の中でも特攻の評価はマチマチで年々評価が変わる。今年は終戦75年で死去した戦士を見ていた遺族は年々減り、写真や言葉で知る人の時代となった。戦後の特攻遺族に対しての周囲の冷たい目は今蔓延している新型肺炎館患者を胡散臭い目で見ていると同じ感じがする。
もう75年と思うかまだ75年と思うか。最近はもう75年と思うようになった。2次的記憶のある人も年取った。戦後の特攻評価の中で犬死論を聞いていた世代だ。家族の中で秘かに伝えられた記憶が今表面化する。
知覧に遺影が残っているのは叔父の家族の提供ではない。多分戦友が持っていたのが遺影として展示している。戦後家族は特攻死を受け入れてはいなかった。本人より生きて帰るという言葉を信じていた。集落の人が九州に旅行に行って知覧の遺影写真を見て遺族に報告が行って、初めて特攻死が現実となった。
知覧と靖国神社の遺影の前では自宅では出ない涙があふれる。なぜ生きて帰るという約束を守れなかったかという生母の声も聞こえる。特攻した本人と交わした言葉を1次的記憶のある人は今でも夢に出てくるという。米軍の記録画像を見ると叔父の飛行機かと思う時もある。