5月20日の夕方に叔父は台湾の台北付近の八塊基地から沖縄に向け、九州・知覧からの特攻隊と合流し、一応米軍の記録に残る戦果を挙げた。しかし本土の知覧の記事があって、台湾からということは本土の新聞にはない。
米軍の沖縄侵攻で日本と台湾の物資輸送が極端に減り、飛行機部品の無い状態で過ごしていた様だ。無理な本土の陸軍司令部の要求で叔父らは特攻した。
戦後になると特攻の評価が変わり、英霊から無駄死に変わり、さらに戦争終結を遅らせたという声もあった。残された特攻家族はその評価に耐え、戦後に男手の足りない時は生きて居たらなと良く聞かされた。飛行機乗りは知力/体力に優れていて、今のように耕運機のような機械のない時代は体力のある人は貴重だった。
アメリカでも軍隊仲間の戦友会活動は60年経つと参加者も減り、休眠になるようだ。戦後78年。
知覧の慰霊会館の遺品保管箱に叔父の遺品は無い。きむらけんさんの著書で叔父の戦歴が記録された。この本に参加したので遺品保管箱に収納したい。
お墓は守る子孫がいなければいずれ消える。知覧はまだ残る気がする。