今年のコロナの収束で、鹿児島県南九州市での5月3日の慰霊祭がやっと開催される。多くの特攻隊員の生きている姿を記憶している人は85歳を超える。近所で無ければ参加をためらう年代でもある。特攻遺族となってまだ20年しかないので心の対処の仕方が不明で日々悩む。その大きな理由は叔父たちの行為が時期と雰囲気で評価が変わる。多くの当事者以外の人たちの言動は動く。しかし遺族はいつまでも遺族であって、決してあの行為は武士道の精神に反していて、美化してはいけないと感じる。叔父の生みの母の膝の上で自分が撫でられた記憶が残る。特攻死から一年半後に生まれた私は生まれ変わりと思っていたのだろうか。
転居のあとと老柴犬の換毛の時期で家族が喘息気味となり、慰霊する気分になれず今年は欠席通知を出した。いずれ航空券が安くなったとき、叔父の知覧の記念館の遺書箱にきむらけんさんの本を入れたい。
生きていたら4月18日で叔父は100歳となる。生誕100年でやっと戸籍以外で活きた航跡を残すことができたようだ。
何時までも叔父にこだわっても生き返ることはないがウクライナの戦争からまたいつ日本で特攻と戦闘方法が復活するかもしれない。そのためにも記録と想いを伝え残すことが必要と思う。自分がここまで来たのも陸軍飛行204戦隊の特攻要員だった人と結婚した台湾生まれの中田芳子さんの行動が叔父と同じ飛行隊ということを知った。多くの特攻遺族が戦後に無駄死にと言われた経験を持っている。一家の中心となる男手を失い戦後の混乱期に苦労したと思われる。飛行機を操縦するには多くの知識が必要でさらに体格が良くないと長い戦闘時間でミスを犯す。ミスすればそれは死ぬことを意味していた。今の滑走路と違って戦地の舗装されていないところで無事に基地に戻って安心し着陸失敗した事例が多く見える。
遺族ならだれでも生きていたならと思う。それだけ敗戦後の苦しさとむなしさが蘇る。