年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

堺市を歩く3

2008年02月14日 | タクワン
堺市を歩く3
沢庵漬の材料が集まりやすいのは水運利用の地であるが今の時代のことから考えるのではなく当時の状況から考えるとどうなるのだろうか。今堺市の北に流れている大和川は奈良から流れる川であるが古来から大阪に流れていてその土砂によって大阪は肥沃な土地となっていた。また大量の土砂によって大規模な氾濫を招く川でもあった。そのため1700年代に川の流れを今の堺市のほうに変えた。従って沢庵のいた時代は堺から奈良に向かうには長尾街道か竹内街道を歩いて通っていくことになる。興福寺の末寺菩提山正暦寺の僧坊酒「菩提泉」の酒をどの道を通って運んだろうか。信長が家康に飲ませたという酒である。「菩提泉」は日本清酒の始まりと言ってよい酒でその製造過程で米を精白する必要が生じて大量のヌカが発生したと言うことになる。それ以前の酒はあまり精米しておらずヌカの発生も少なかったと思われる。さらに酒造の発達とともにその製造のための木の樽が発達した。また泉南の平野は大根を干すには良い気候だったのだろうか。大根を掛け干しすることは戦国時代から始まったと言われる。堺の港は瀬戸内の塩の輸送にも利用されたと思われる。ほとんど同じ時期に堺のあたりに沢庵漬の材料がそろっていたことになる。そこに沢庵和尚が堺にいたのである。
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堺市を歩く2

2008年02月13日 | タクワン
堺市を歩く2
出羽の海部屋の宿舎となっている堺市大町東の祥雲寺から南宗寺に向かって歩いていると町内パトロールの人からかなり距離がありますよ言われた。タクシーに乗るまでもない距離と思い歩いていると実に寺院の多い町である。堺市駅の文化センターの職員が祥雲寺のことを知らないのは当然と思われるくらい寺院が多く由緒書きの掲示のある寺院も多い。少林寺小学校と言うのも道中に在った。道が突き当たると左によれ道なりにさらに東に向かうといつの間にか南宗寺の東門に出ていた。南宗寺は京都大徳寺派の禅宗の寺で千利休と縁がある寺で沢庵和尚も関係している寺である。堺の人達は建物を造ることが好きだったようで普請道楽ともいえたがさすがに大阪夏の陣のあと堺の経済の没落とともに精彩を欠いていった。しかし酒造の歴史を調べると酒や醤油の江戸への出荷地として栄えていたようである。夕方4時を過ぎていたので寺の中を見ることが出来ずそのまま出てさらに東に向かうと堀というくらいの土居川にぶつかる。サギの一種か鳥が土居川のところに一本足で立っていた。南宗寺の南は熊野街道であったらしく堺の五街道の掲示板を見て熊野街道と思われる道を大阪に向かって歩く。アーケードのある山之内商店街に向かって歩いていると花屋と思うくらいに草花で飾ってある個人の住宅があった。近所でも有名な家でしょう。昔は繁盛していたと思われる商店街を出ると竹内街道にぶつかり街道を南海電鉄堺東駅に向かって歩く。今でも堺市の中心らしく公共施設が道沿いに多い。竹内街道と長尾街道はともに奈良に向かっているがどちらかと言えば沢庵漬の樽に縁がありそうなのは竹内街道沿いと見ている。それは奈良の春日大社・興福寺の酒造から見て日本で始めて清酒が奈良で造られ、その清酒造りの過程で米糠が発生し、清酒造りの廃棄物かまたは輸送容器の樽の再利用で沢庵漬が考案されたと思う。沢庵和尚が堺から奈良の間の人から沢庵漬をもらい和尚が工夫普及させたと思われる。
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政令指定都市になった堺市を歩く1

2008年02月12日 | タクワン
政令指定都市になった堺市を歩く1
JR堺市駅はどちらかといえば堺市のはずれで駅のそばに不釣合いな施設があって、何も知らない東京人はいきなり驚かされた。堺市に予定外の訪問のため地図もない。堺市駅前にある与謝野晶子の文学館で堺市の観光地図をもらい、祥雲寺の場所を尋ねたが知らないと言われた。仕方なく沢庵和尚の関係する南宗寺に行くことにしたら、地図に祥雲寺が在ったため、タクシーに乗って堺市駅から向かうことにした。運転手さんに地図で場所を示しながら話すと大相撲3月場所の出羽の海部屋の宿舎というのではないかと言う。大阪夏の陣にて焼失した祥雲寺は堺の豪商谷正安の援助によって、寛永5年(1628)、沢庵を開山にして海会寺跡に祥雲寺を創建したという。谷正安と言う人物の略歴が東京では見つからないのでとにかく現地まで行ったのだがあいにく堺市の郷土資料館は休みのため、現地を散策して江戸時代初期の堺の風景を想像しつつ、祥雲寺~南宗寺~南海電車・堺東駅~JR堺市駅まで戻るコースを歩いていった。約6km位でしょうか。現地を歩いて堺市という町は戦国時代に繁栄したと言うが熊野詣でと大和川水運とか瀬戸内の海運の要衝と言うことがわかる。沢庵漬に必要な空樽をいつごろ誰から堺にて沢庵和尚が手に入れたのだろうか。まだ判らない。
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県知事も大変

2008年02月11日 | 宅老のグチ
県知事も大変
東国原知事の出現で知事か県産品のセールスマンとして地場の食品を売り込むことが盛んになりました。昨年、赤福騒動の中、鳥羽で開かれた全国漬物の地域産品の研究会に三重県知事が参加していました・和歌山県のみなべ町の梅祭り(2月11日)にも和歌山県知事以下多数の農産品関係する役人や観光部門の人達が参加していました。知事の選挙運動でなく特産品を売り込むことが新しい選挙のための事前運動となった気がする。地方財政が厳しい状況で税金を当てにしていた人達から特産品を売り込むことによって地場の景気を良くする事は新しい潮流とも言える。漬物もこんなところから見直されてくる。
ちょっと前までは漬物のイベントには県知事や県議会議員は大抵代理出席でした。変れば変るものです。
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築地市場開場の日

2008年02月10日 | 築地市場にて
築地市場開場の日
たしか2月10日は築地市場が出来た日であったと思う。昭和10年2月に開場してすでに70年を越えている。その頃から残っている建物は老朽化をこえ廃屋に近い。先日の雪による雨漏りが出たので東京都の築地市場設備管理課に電話したところかなり経ってからやってきた。あちこち雨漏りで忙しそうでした。あまり知られていませんが小さな地震で倒壊するところがありそうです。きっと驚くでしょう。築地市場が日本橋や京橋から移転したのは関東大震災によって、治安維持法が発動され河岸の再建が武力によって阻止されたためで、明治時代から移転の計画があったけれど中々実現しませんでした。
 地震と移転問題はいつもつながっています。京橋の大根河岸から築地市場へ音楽隊を先導にして行進したとありました。でも行進している人達の心中は前途に対する悲壮感があったと思われます・昭和10年ならすでに中国との戦争中で大変だったでしょう。
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京橋法人会

2008年02月09日 | 宅老のグチ
京橋法人会
京橋法人会の月報を何気なく読んでいたところ気になる文があった。それは銀座7丁目にある日本料理の店『米村』の経営者と思われる人の食の賞味期限・消費期限に関しての見解である。
 日本の食文化と海外からの圧力によって制定された法律が様々な食品製造者・販売者・消費者の思惑と法律の不備によって、今偽装と言う結果で告発されている。自給率39%の日本で廃棄される食品の多いことは法律の不備ではないのだろうかと言うことである。
『もったいない』と言うことで工夫する食文化が日本の食文化の本流で有り余る食の国ではないのである。日本国民が米を好きなだけいつでも食べられるようになったのは、ほんの30年ほど前の米減反政策が始まった頃である。たった30年で米一粒粗末にしてはいけないという食文化からコンビニ弁当の消費期限の売れ残りを販売しないで廃棄する食文化となってしまった。客が来てから作るモスバーガーと作っておいて客が来ない時間が経過すると廃棄するマクドナルドのハンバーガーと言うことである。いつの間に顧客優先という事でマック流が主流となってしまった。海外の食原料の値上げが続く時代に廃棄する食を今のままでよいのだろうか。
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下町今昔 秋山安三郎著2

2008年02月08日 | べったら市
下町今昔 秋山安三郎著2
べったら市
戦争前べったら市の大根が統制になっていたため市が中断していたと言う。この市でべったらと呼ぶのは関西人で東京人は昔から『浅漬』と呼ぶ。麹の中に漬けてあまり日が経たない内に売り出すから浅漬けという。市に出店した商人が浅漬をつかんで振り回し『ほらべったら、ほらべったら買わないで素通りすると着物に(麹の漬け汁)付くよ』と叫んでいたので関西人が早とちりして『べったら漬』と言ったのに始まる。そういえば朝日新聞は関西から始まったので早くからべったらと新聞記事になっていた。読売は結構遅くまで浅漬となっていたかもしれない。
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下町今昔 1

2008年02月07日 | べったら市
下町今昔 秋山安三郎著より
日清戦争のときの浅草の酉の市で売り子が客に『負けた。負けた。』声をかけるのを止め『買った。買った』と声をかけるように申し合わせたという。
 なお酉の市は江戸っ子は『とりのまち』といい他の人達は『とりの市』と言っているという。10月の『御会式』から『べったら市』『酉の市』と続いているが明治の新聞報道で露天商の数の多さは今と比べて信じられないくらい多い。明治の人達は芝居や行楽が娯楽の中心だったようである。
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ゴミ値

2008年02月06日 | 宅老のグチ
ゴミ値
4月から東京の廃棄物処理料が上がりキロ当たり30円を超えそうで、青果のセリ値がこの値段以下だとゴミ値ということになる。
 ギョーザ事件の余波が来ていて売れ行きの遅れた食品はゴミ処分場に行くことになるがキロ30円では輸送費等を考えるとかなり安い値段で委託されねば損害を被る事になりまだ引き受けるには時期尚早という結論となった。色々な余波がやってきてギョ-ザ売り場の縮小は他の食品売り場の拡張となる。何が増えるのだろうか。
 ようやく事件の本質が見えてきた。故意による事件だろう。従ってこれは根の深い問題か愉快犯だろう。歴史認識の差による事件と考えるほうが正しい解決策。性善説をとる日本と性悪説をとる中国の差か。
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その日暮らし

2008年02月05日 | 宅老のグチ
その日暮らし
月が変わって例の農薬ギョウザ騒動。マスコミの不勉強が目立って食料自給率40%以下の重みがわかっていない。しかし反論しても疲れるだけ。当面静かに漬物の歴史を調べること。たった100年ほど明治の日本の事情がわからない。今は目的なく雑然と本を借りて読むだけ。時代小説といっても明治のものは少なくこれからかも知れない。ちょっと経てば忘れる国民性、過去の歴史の繰り返し。戦争以前の明治30年代にも着色料によって食中毒事件が日本であった。そのことで明治34年頃主な衛生法規が制定されたのである。
明治の中ごろは日本でも食に関する事件は多かった。
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築地市場の停電が終わって

2008年02月04日 | 築地市場にて
築地市場の停電が終わって
例年のように築地市場の停電。前は3回あったのが今は2回になって無事終わり。困難な電気なしのコンピュ-タ起動。失敗すればますます電池起動のためあせる。今年からインバータ付の発電機を導入した。これで長時間停電等に対応することが出来るだろう。困難のことがアイデアを出させる。必要は発明・工夫の母と言うこと。
 少し前の持ち運びできる発電機はインバータ付の必要性がなかったが工事現場などでパソコンを使う必要性が出たのでしょうか。
 青果の卸売り場には夜間の工事現場にある投光機が設置されていて雪のためさらに暗い卸売り場を照らしていた。前週の停電時にはなかった気がする。誰かレンタルを進言したのだろう。
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天洋食品の写真

2008年02月03日 | 宅老のグチ
天洋食品の写真
ニュースで農薬ギョーザ事件の天洋食品の工場内部の写真が公開されてきたが、この水準は日本のでも良い工場並みである。昔の日本で手作りのときにも髪の毛の混入を避ける服装はなかった。今の漬け物工場も中国では同じ格好で操業している。しかしギョーザ工場と違うのは漬け物は日本に入るとき検査があるし、また工場の検査室で再度検査し衛生・農薬・塩分濃度等を検査している。
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国語審議会

2008年02月02日 | 趣味としての漬物
国語審議会
国語審議会が常用漢字を見直すと言う報道がありました。漬物の『漬』という変遷から漢字を学校でどのように教えるかは結構政治問題となっていて面白い。
 明治政府は漢字制限をして学校にて教える漢字数を減らして、他の教科に時間を割いて欧米の科学に追いついていく科目の時間を増やす必要性があった。
『漬』の漢字がほとんど制限なしに新聞記事に現れていたのは大正の終わり頃までで大正末期から一部の新聞おいてカタカナで『ツケモノ』と表記されるようになった、戦後は『漬』の漢字が使えなくなり『つけ物』と表記されるようになった。いまは『漬け物』と新聞では表記されているが昭和50年代以後のことである。
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明治のスキャンダル報道

2008年02月01日 | 福神漬
明治のスキャンダル報道
萬朝報 明治 31 年7月14日
浅田正文 帝国商業銀行取締役兼支配人たる同人はもと柳橋の千代こと小平まん(30)を妾として下谷池之端2―18の自宅に置く。この小平まんは築地料理店野田屋の娘なるが、野田屋はこれがため大いに融通を得たり。

下谷池之端2―18 には福神漬の関係者鶯亭金升 も同じ場所に住んでいた。
この地は今の横山大観記念館のところに当たる。気になるのは三菱の岩崎邸がすぐそばにあることでどんな理由でこの地にあったのだろうか
弊風一斑 蓄妾の実例 明治31年(1898)年7月7日から9月27日『萬朝報』に連載された。各著名人の女性関係を実名報道していた。
浅田は帝国銀行となっているが日本郵船出身であるのだが今では余り知られていない。
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