年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

榎本武揚と佐久間貞一のこと2

2009年04月15日 | 福神漬
榎本武揚と佐久間貞一のこと2
日本郵船関係者と旧幕臣との連合で作られた吉佐移民会社の移民船に福神漬納入関係の資料は今のところ見つかっていない。それどころか明治24年ニューカレドニアに向かった広島丸の積載物の中身は幕末の咸臨丸がアメリカに向かったときの漬物と同じ種類の漬物だった。紅しょうがは咸臨丸には無かったが。明治24年当時福神漬がまだ一般的でなかったという証明かもしれない。
 下谷区茅町の三菱と下谷出身の旧幕臣が郵船に福神漬を紹介したルートの一つとも考えられる。カラーライスと福神漬の関係でどこがいつ郵船に福神漬を積ませたかが問題である。日本郵船の船に積載されれば食物が船客に提供されるのは時間の問題である。
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榎本武揚と佐久間貞一のこと

2009年04月14日 | 福神漬
榎本武揚と佐久間貞一のこと
榎本武揚は1836年下谷御徒町で生まれた。
佐久間貞一は1848年下谷南稲荷町で生まれた。
二人とも下級武士の出身であった。両者の接点は戊辰戦争のときは無かったと思われるが
1890 年(明治23年)3月1日に、それまで文部省が行っていた教科書編纂・出版事業を民間に払い下げる時、佐久間が払い下げ会社の定款作成を行い、教科書の大日本図書がスタートした。その当時の文部大臣が榎本武揚で付き合いが生じたと思われる。初代社長は佐久間貞一で、大日本印刷の創業者でもある。
佐久間が生まれた下谷南稲荷町は昭和40年(1965)の住居表示で東上野二・三丁目および元浅草二丁目になった。
 両者の共通点は佐久間が彰義隊に参加しており、榎本とは旧幕臣の心情が一致していた。更に佐久間が天草で移民事業をしたことと榎本の北海道開拓事業も共通していた。
榎本が外務大臣の頃、つまり明治24年頃ニューカレドニアのニッケル会社から労働者供給の依頼があり、国内の信用ある企業と外国人企業が移民契約を結び、そしてその日本人企業と邦人労働者との間に移民契約を結ぶ形で移民事業が許可された。信用ある会社として
榎本は日本郵船の吉川泰二郎と佐久間貞一を結び吉佐移民会社を設立させたと思われる。
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ニューカレドニア島の日本人 小林忠雄著

2009年04月13日 | タクワン
ニューカレドニア島の日本人 小林忠雄著
日本人移民のために用意した食料。
一日3食の支給として 日本白米900g、乾し魚・塩魚110g生魚または牛肉200gその他茶・醤油・味噌及び漬物は普通の日本農民社会で用いるだけ。
 明治25年日本郵船広島丸へ600人の移民、精白米800石、たくわん180樽(一樽の価格65銭)醤油300樽(一樽の価格1円20銭)梅干40樽(一樽2円90銭)紅しょうが10樽(一樽1円60銭)であった。
たくわんは横浜で船に積載され、梅干・紅しょうがは神戸で積載された。一樽の大きさは不明だがたくわんに関しては2斗か4斗の樽となるがどちらになったか今のところ不明。
 明治25年頃はまだ福神漬が日本郵船の移民船には積載されていない事がわかる。福神漬の缶詰が高価であった一般人まで知られていなかったためと思われる。
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花月随筆

2009年04月12日 | タクワン
花月随筆
飯島花月
はだなと大根 489頁
川柳に扱われると干し大根は老人のしわだらけの姿のように扱われる。はだなは若い婦人に見立てた作が多い。

干大根はだなの側に恥ずかしき

江戸においてははだなうり大根は正月松の内に売りにくるというので正月風景となっていた。冬野菜の不足していく時期だったので重宝されたのだろう。お惣菜に使われたという。

はだなは神奈川県秦野市の産した大根の品種で宝永4年(1704)の富士山の噴火で秦野市は火山灰で覆われたため『はたの大根』は壊滅的打撃を受け、後には練馬大根の干し大根と混同されるようになったと思われる。
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『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』

2009年04月11日 | 宅老のグチ
『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』
新聞の広告を見ていたらこの本が4刷と書いてあった。内容は少し以上に専門的で明治時代の国家財政の状況が詳しく書いてあって、福神漬やべったら市の歴史に関係してくる国家財政の危機の背景が良く理解できる本といえる。今百年に一度の危機といって大盤振る舞いの政策によって税収以上の国債が大量発行され、景気回復しなければかなりのインフレとなって、子孫だけでなく生きている高齢者が収入拡大の余地がないため悲惨な老後となるだろう。
本の題名にだまされた人には気の毒だが高橋是清の人物伝というよりも第二次世界大戦前のわが国の財政の歩みを、特に明治時代の日本の国家財政を詳しく書いてあった本だった。福神漬の歴史の中で日露戦争後の不況の前後関係がよくわかってきた。べったら市の歴史や福神漬の歴史も国家財政の影響は免れない。
明治から第二次大戦に至るまでの財政史のわかりやすい本で積読にはよい一冊。


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内田魯庵の『くれの二十八日』

2009年04月10日 | 福神漬
内田魯庵の『くれの二十八日』
内田魯庵の小説を読んでいたらメキシコ移民が中止という話からグタグタした話だった。明治の30年代の話だと榎本武揚のメキシコ移民の話となる。
 角山幸洋 『榎本武揚とメキシコ殖民移住』から移民事業の失敗の原因として1.調査不測・耕作に適さない土地しかなかった。2移民.監督の力量不足。3.栽培植物コーヒーの土地としては不適合などがあった。また榎本武揚の立場が薩長政府の中で自由に動けず資金不足となってしまった事と福沢諭吉の『やせ我慢の節』に反論することなく行動でしめ示さなければならないというあせりがあった。
 ただ気になるのは榎本武揚が足尾鉱毒事件で農商務大臣の立場で谷中村を視察後辞任した時期だった。メキシコ移民が出発した数日後の事だった。函館戦争時も榎本は最後まで行かなかった。彰義隊23回忌を終わった後文部大臣を辞任している。何かがあるのだろうか?
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常陸丸の資料調査

2009年04月09日 | 福神漬
常陸丸の資料調査
常陸丸遭難の件で日本殉職船員顕彰会へメールすると翌日電話がかかってきた。カレーライスと福神漬の件で調査していると話すと資料を送ってきた。この資料によると日本は日露戦争の時から物資を輸送する船を護衛する軍艦を造ってきてなかった。ところが米軍はその用意をしていたという。第二次大戦で軍人の戦闘の死者より戦病死・餓死が多かったのはこのような理由があるのかもしれない。近代戦では物資の供給力の戦いかもしれない
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フォークリフトの講習会

2009年04月08日 | 築地市場にて
フォークリフトの講習会
これから4月の休市日にフォークリフトの講習会が行われる。築地市場の重大事故はだいたいターレーとフォークリフトが引き起こすので免許が必要となる。特にフォークは免許がないと保険が利用できないので必ず免許を取る必要がある。昔は二日で取れたが今は4日かかる。
 今の築地は免許のない人でも仕事は出来るが時代の変化と体力のない人達が築地で働くので免許がなければ仕事はできない。まだ江戸時代と同じ子車が水産仲卸で活躍している。エコ車となるが体力のない老人が子車を機敏に動かすのはつらい。
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過渡期

2009年04月07日 | 福神漬
過渡期
明治の日本は江戸時代のしきたりから欧米風に改めることの混乱の時でもあった。芝居の世界でも一番問題となったのは芝居興行で生活している人達の既得権の調整の問題であった。
 市川左団次・小山内馨の演劇改良も尽きるところは芝居茶屋との闘争の歴史でもあった。自由劇場の興業、つまり芝居の営業つまり宣伝・顧客確保を担っていた芝居茶屋の人達が入場券制度によって客に便宜を図れなくなったり、客席における飲食の禁止は観客の行動の乱れで失敗した。結局。芝居茶屋の人達と妥協して混乱を収拾した。このことが世間に知れてかえって評判となり観客が次第に増加し収支が均衡するまでになって次の興業を開けるようになった。
 今の歌舞伎見物では茶屋の案内などなく決められた番号の席に着くのが当たり前だが明治の時はそうではなかったのである。 左団次自伝より
 今の日本の演劇鑑賞方法はここから始まった。市川左団次・小山内馨は鶯亭金升の運座の席で何を語らったのであろうか。
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ゴルフ場の穴

2009年04月06日 | 築地市場にて
ゴルフ場の穴
先日北海道のゴルフ場で突然大穴が出来て人が落ちた事がありました。築地の穴も数多く車輪が落ちて車が揺れ、荷物が落ちる事もあります。
今の築地市場の地盤沈下が徐々に進んでいて建物の床のひび割れが進んでいることが躓いて転んだ時気がつく。昔はただにひび割れだったのが段差がついいて躓くようになったこと。朝日新聞が築地に移転して30年ほどなるが駐車場の入り口はかなりの段差がついた。海面からあまり高くない築地の地盤は基礎工事をしっかりしているので建物が壊れることはないが、ゆがんだ地盤沈下は建物のひび割れを生じさせ雨漏りとなる。今壊れると都の予算がまだないので修理が出来ない。
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子規庵にて

2009年04月05日 | 築地市場にて
鶯谷子規庵にて
根岸は鶯谷駅に近い。ホテル街のど真ん中に子規庵がある。土曜の昼下がり二人ずれといかにも俳句が趣味と言う人たち町をうろつく。子規庵は戦災に遭い昔と同じ間取り、同じような風景を維持しようとするが隣家のケバケバしいものは子規の病床の位置からでも見えるのではないのだろうか。庵を訪れるひとたちは俳句の同好の人らしく高齢の人が多く、俳句が今日本で盛んな趣味と思えることが納得できる。
 庵を出て根岸3丁目にある西蔵院に向う。この寺に佐久間貞一の碑があるという。文は島田三郎・書は榎本武揚である。案内もなく寺の人に聞いて存在を確かめる。この人の力がなければ明治の印刷文化の発展が遅れただろう。
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幕臣と移民

2009年04月04日 | 福神漬
東洋移民会社
福神漬の絡みで浅田正文の経歴を調べていると日本郵船・東武鉄道・東洋移民会社が良く出てくる。東洋移民会社は資料的なものが少なく福神漬の歴史に絡む可能性が少ないと比較的無視していた。しかし石井研堂『明治事物起源5』金融商業部に移民会社のはじめに不思議な記事がある。
移民会社のはじめ
明治24年秋頃より、日本郵船株式会社副社長吉川泰二郎と秀英社社長佐久間貞一と相計らい吉佐移民会社を設立した・内地の労働者を募集し、海外各国の需要に応じ、日本郵船会社の船舶を借りて、その出稼ぎの紹介機関を目的とする。資本金10万円にて無限責任、期限10ヵ年と定めた。第一回は南洋の一島仏領ニューカレドニアのニッケル鉱山の依頼にて移民600名を送った。
 秀英社社長佐久間貞一は日本橋生まれ、上野の彰義隊に参加したが、どういうわけか上野戦争に参加できず(当日不在であった)この件は自身で語ることはなかったという。
秀英社は今の大日本印刷の創業者となっている。
吉佐移民会社は後に東洋移民会社となったようである。『日本奇人伝』鈴木明著より
従って浅田正文の晩年は東武鉄道と東洋移民会社が主となっていたのだろうか。旧幕臣と郵船のネットワークの一つがここに現れた。
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なた豆 共古随筆

2009年04月03日 | 福神漬
共古随筆 山中共古著 なた豆(福神漬に入っている)
山中共古とは
1850-1928 最後の幕臣の一人であり、のち、キリスト
宣教師となる。本名、山中笑。
明治時代の考古学、民俗学、江戸学の先駆者と知られている。

なた豆のあと先を切らず、そのまま糠に漬け置けば、盗人その家へ入る事なしと伊勢津の婦人に聞くと、同地に行った人の話。

早打かたという急病起こるときに、何の棒にてもナタマメ刃豆と言って、それにて肩を打つと直すと言うと。

刃豆を食べると、肩がこらぬという。(江戸)

早打肩とは肩が急に充血して激しく痛み、鼓動が早くなり人事不省におちいる病気。

刃豆は切ると一の字形になるものにて、旅立するときに食するものと、どれに行きて一のものになるという。(御進発の時多くこれを食し旅立しと『おき』の話)刃豆は下より裂きき始め上まで登り、また下りて花を咲き出すものゆえ、旅立ちする者登降無事に行く、刃豆の花の如くを祝意して、これを食し出立するものと聞く。

江戸時代吉原にて遊女を買う時は、まず刃豆を食べさせて、しかるのちに価を定めると。それは癇癪(かんしゃく)性の有る者は直ちに病発するという。

何事か掛け合い等に行くとき、先方へ対し引けをとらぬ咒(まじない)とて、刃豆を食べてゆけば必ず負けぬと、大阪の老婆の話。(氷屋の婆さん、阪地九条のあたりの者なり)
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人事異動 IN 築地市場

2009年04月02日 | 築地市場にて
新年度
市場の情報誌が届いて読むと。今年の人事異動がニュースとなっていて、既に平成26年の移転は折込しているようで、築地の水産仲卸の22年の店舗移動は立ち消えになったようである。この不景気ではとてもでないけれど築地の中で移動する必要性はない。空いた立地の良いところに店が移れば良いだけとなってしまったようである。飲食店需要が今の築地の一番重要な客だが年度末新年度の歓迎会。送別会需要が消えれば暇になるだろう。花見や野外の飲食需要では売上が延びないだろう。
 京橋築地小学校の桜の花が最近の低温のために何とか入学式まで花が持ちそうである。唯一華やかなところとなるのだろう。
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淡島寒月のこと

2009年04月01日 | 福神漬
淡島寒月のこと
この人の名前は『敗者の『「敗者」の精神史』で知る。幸田露伴を湯島にあった東京図書館にていろいろ指導する。幼少の頃は欧風の生活にあこがれたが、欧米人に日本のことを聞かれたときの回答をするため湯島の図書館に通うこととなり、井原西鶴を読み感動する。
明治になって幕臣の生き方は様々であった。江戸の市民の対応も様々であったが幕府の恩恵を受けていた商人達は武士という消費者の減少によって打撃を受けていた。
 新政府に対応できなかった人達が浅草や下谷に集まってきたのは偶然だったのだろうか。さらに後には向島に隠居を構えるということはどの様な意味があったのだろうか。
 下町の人達の反政府の人達を支援する心情が江戸時代の気風と混ざっていったのではないのだろうか。
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