年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

白い象

2010年09月15日 | 築地市場にて
タイでは白い象を見つけると国王に献上するそうですが西洋のことわざで「white elephant」は「不用なのに維持費だけは高くつく物」を意味する名詞があります。
昔、タイの国王が貴重な白い象を気に入らない廷臣に与え、莫大な飼育費で困らせた話から生まれた。
 今でこそ築地市場は外国人観光客で賑わっているがほんの少し前まで中央区で市場に関係ない人達から、迷惑施設と思われていた。交通安全週間等の警察の講演で築地警察等が都心の交通渋滞の元凶は築地市場と言っていた。バブル期、様々な合法的な方法で築地市場へ買出しに来る人たちを不便にさせる方法を考え出した。歩道に駐車することを禁止し、勝手にUターン出来ないように中央分離帯を設け、歩道をタ―レが走らないように杭を打った。さらに暖房の少ない市場で働いている人達が体の中から温めるため酒を飲んだら運転させないようにした。
 世間では当たり前のことだが築地市場では少し前まで通っていた。今売上不振で移転問題を抱えているが大幅な国税・都税・中央区の税金を投入しなければ現市場では無理だろう。市場経済では経費の安い所に流れていく。築地のような土地の高価な所では安い市場使用料を維持するには税金の恒常的な投入を必要とする。何しろ文化財なのだから。国技と言われる相撲協会と同じ論理となる。その点で中央区は税金を投入する覚悟があるのだろうか疑問である。
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パワースポット失格.・築地市場?

2010年09月14日 | 築地市場にて
築地市場訪問はサゲマンか?
9月11日民主党代表戦候補者の小沢氏が築地場外市場を訪問し演説した。しかし私の記憶だと最近築地市場に来た政治家はその後の選挙であまり良い結果が出ていない。同じく菅氏は2007年5月下旬に築地市場を視察しているがあまりよい結果がその後の選挙(代表選?)で出たとは思えない。マスコミに目立つ記事が築地に来ると出ると思っているのだろうか。既に水産業人口は激減していて、子供たちは魚を怖がっていて、骨なし切り身でしか食べられない。学校給食で骨でも喉に刺さればクレームの対象となりうる。
 経費節減は報道機関にも現れているようで築地は経費がかからないだけである。
ドイツの予想タコに負けない、築地市場訪問占い。当たるかな。

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平成23年の築地市場の休日

2010年09月13日 | 築地市場にて
平成23年の築地市場の休市日の回覧が回ってきた。来年の特色は1月16日(水)に青果部だけの休市がある。また8月には14日(日)から17日(水)まで4連休がある。祭日を含めて月4回休める月は7回ある。労働時間が週40時間という問題に押されたのだろうか。青果部の年間労働日数は272日となる。

来年の予定を立てる方は築地市場協会ホームページを参照してください。
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キッコーマンの社史から

2010年09月12日 | 築地市場にて
キッコーマンの社史から
行徳にあったキッコーマンの工場の件で高輪台にある味の素食の文化センターに行った。社史には殆ど記録が無く目的は果たされなかった。戦前、キッコーマンには労働争議があった。発端は醤油を入れる樽製造労働者の待遇改善から始まった。この後日本労働運動史に残る争議となった。戦後醤油容器が樽から缶とかビン・プラスチック容器となり、樽製造労働者は転職せざるを得なかった。若い人達は他の仕事に高度成長の人手不足を補うため転職して行ったと思われる。しかし高齢の人達は漬物工場での樽修理の仕事を見つけ従事するようになった。漬物用のプラスチック樽は重石をかけるため、丈夫でなければいけないので高価となってしまって普及するには時間がかかった。この間の漬物労働者の不足と樽修理の仕事と言うことで樽職人の転職先となっていた。あまり知られていない事実である。修理の樽が減り、プラスチック樽が丈夫となり、さらに価格が低下すると、普及が促進された。今では4斗の新樽は酒樽しか見えなくなってしまった。
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食べ物の歴史は遅行性で

2010年09月11日 | 築地市場にて
食べ物の歴史は変化があってから事実として記録されるのに時間が経ってしまって因果関係がはっきりしないことが多い。東京市場に三浦大根が青首大根という品種に変わってしまったのが10月に来た台風のためだった。それでも青首大根が東京市場に定着するまで時間がかかっている。食の世界は保守的である。先行している品種の売れ行きを様子見している人達が多く、一旦取り入れると一気に旧来の品種を捨て行くようになる。
 漬物の世界でも昔の市場に出ていた白菜が一夜漬白菜で袋に入れても鮮やかな黄色が目立つ黄芯系の白菜に変わった。今のキムチ用の白菜は水分の少ない韓国系の白菜となっている。無駄な塩分を少なくする効果がある。何時ごろから変わったかまだ記録が無い。
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佐倉藩続徳太郎(豊徳)

2010年09月10日 | 福神漬
戊辰戦争と明治教育 秋山 保著から
続徳太郎(豊徳)
佐倉藩儒士
天保2年生まれ明治23年10月病没(63歳)
松林寺 続の菩提寺か?
佐倉市弥勒町93-1  
花香恭次郎が戊辰戦争の混乱期を避難する場として佐倉を選んだと思われるが彼の11歳の頃である。今の船橋市八木谷に知行地があった長井家の意向が反映していた。長井昌言は谷中にある花香恭次郎の墓碑によると後見役を果たしていたようである。
 明治2年花香は東京に出てくる。つまり佐倉には1年ほどしかいなかった事になる。この時期、続徳太郎は佐倉藩の重役として、旧幕臣を脱走して千葉で兵をあげた江原素六と攻撃してきた西軍との間の交渉に没頭していた時期であるので、花香を教育することはなかったと思われる。しかし福島事件の予審の記録に出てきている位なので多少の影響があったと思われる。洋学の盛んな地で藩儒士であった続の行動をどの様な目で見ていたのだろうか。維新後、儒学はすたれて佐倉での続の活躍が消えている。経歴から花香と続は同時期に死去している。
 明治の外交官として知られている林 董(はやし ただす)も続徳太郎の所で学んでいた。
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関係ないと思いつつ

2010年09月09日 | 築地市場にて
関係ないと思いつつ
図書館で調査中、千葉県船橋市史が目に付いた。ここは福神漬の語り部である鶯亭金升の生誕地がある。幕末いや明治ともいえる時に生まれた。海沿いの船橋で無く内陸とも言える八木谷である。ここには幕臣長井家の知行地があった。市史によると鶯亭の父長井昌言のことは詳しく記述されていない。それどころか昌言の出自が不明と書いてある。正当な見方で歴史を見ていないので歴史家がそれぞれの専門分野で記述されているので違った分野が見えない気がする。
 9号の大雨が築地市場の休市日にどの様な影響を与えていたのだろうか。都の設備係りは修理や点検の依頼で急がしだろう。なにしろ露天商に近い状態だから大雨にはとても弱い。市場の中を点検すると6月に補修した効果があって雨漏り被害は少なかった。
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種まき雨

2010年09月08日 | 築地市場にて
猛暑と雨なしで関東各地は種まきが遅れているようである。台風9号の雨でやっと種を安心して蒔くことが出来るが収穫する時期が重なるので価格暴落ということも起こりえる。ただ救いは東北地方が比較的猛暑のなかで雨が多かったようで価格の高騰した野菜の抑える役目を果たしてもらいたい。
 世の中はデフレだが野菜の世界はだんだんインフレの芽が出だした。農家人口も恒常的に減少して企業が農業に参加しても採算性のことはあまり語っていない。天候次第では殆どただ同然の価格となり、人件費輸送費等の固定費がまかなえない現実がある。今は野菜を加工して付加価値を付けていくのが永続する農業の流れである。
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エコカー補助金の終わり

2010年09月07日 | 築地市場にて
先日自動車の鍵の電池が切れた。ドアやエンジンが鍵穴にキーを差し込んで作動させる方式でない。自動車販売店に電池交換のために出向くと、テレビでの報道でエコカーの補助金目当ての顧客で込み合っていると思ったが閑散としていた。修理の間に雑談をすると既に補助金獲得は8月末では無理だと言う。
 需要の先食いでこの先どうなるのだろうか。梅干が暑さで売れている。需要不振で今年の梅干の作柄が悪くても品不足とならない見込みから来年も暑さが続くと品切れとなるだろう。安い国産のつぶれ梅を利用しているコンビニのおにぎり梅は誰も来年は品質規格にうるさいので品を出したがらないだろう
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日の出時刻

2010年09月06日 | 築地市場にて
何時の間に東京の日の出時刻が午前5時を回っているが朝から昨夜の気温が下がらず、また熱帯夜となる。台風のコースも次第に太平洋高気圧の弱体化か日本にやってくるように思える。小さな台風9号が日本を過ぎ去ると秋が来るのだろうか。もし来なければ一つの季節が減ってしまったような感じが残るだろう。
 秋から電動ターレーの電源の工事が始まるが運用は来年となると言う。これは築地市場の地球温暖化のガス削減だという。十台強の電動ターレーが導入されるとほぼ削減目標値の一年分となると言う。今の築地市場の電動車の割合は水産部が7割、青果部が5割と言う。他市場では100%のところもあるようで築地はそれだけ遅れている。特に狭くて水産部の中を走り回るガソリンターレーの排気ガスは健康に良くない。
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史料探しは失敗の連続から

2010年09月05日 | 築地市場にて
史料探しは失敗の連続から次の手が生まれると信じて進むしかない。福神漬も大体終わりになってきて細部の確認となる。何もしないで確認済みとは言いにくいが迷惑をかける事となる。今年は日韓併合100年で、あと2年で大正100年となる。既に関東大震災以前、つまり大正生まれの人達の証言が無ければ歴史となってゆく。しかし生きている人達がいるので明治維新前後を除くとまだ歴史となっていない。従って史料収集の対象となっていないので材料がないとなる。
 ところが視点を変えて行政記録などが残っていると歴史資料となる。個人情報の管理の甘い時代は納税者リストとか土地台帳の変遷から探ることが出来る。公開されている電話帳は時代が変われば史料となるだろう。

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9月1日は防災の日

2010年09月04日 | キムチ
防災の日は大正12年9月1日の関東大震災を由来としています。しかし、色々今に伝えられている事実の中で日本橋魚河岸、神田青物市場及び浜町青物市場その他の復旧開業を東京市が阻止した事実は知られていない。
 大正12年初めに成立していた中央卸売市場法に従って中央卸売市場の開設を準備していたので、震災をきっかけとして、強引に戒厳令のもと、各市場の再建を軍隊によって封鎖した。紆余曲折の経過をすぎて日本橋魚河岸は築地へ、神田は秋葉原駅前に移転した。
 この震災の時に朝鮮人・社会主義者の虐殺があった事実は良く知られている。しかしこのときの影響が日本におけるキムチの歴史に長く影響を与えていた。キムチの日本に今のように普及するには時間がかかった理由は震災時の出来事、第二次大戦後の日本の混乱がかなり影響している。
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猛暑で

2010年09月03日 | 築地市場にて

猛暑で梅干しが売れているようでメーカーさんからの出荷の遅れの連絡が来ている。塩分に対する理解が少しは進んだのだろうか。長い間『塩分は高血圧・発がん誘発するとして塩分を控えろ』という宣伝が行われていた。
 猛暑で流れ出る汗から塩分が失われて、ただ水分を補給しただけでは熱中症は防げない。スポーツドリンクになじめない高齢者が昔からの梅干しを購入しているようである。しかし、昔ながらの梅干しは消えていて昔は20%以上の塩分があったが今では15%以下の低塩分になっている。
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月が変わっても

2010年09月02日 | 築地市場にて
月が変わっても暑さは変わらず、野菜は高いようであるが水産の人達は忙しいと言う話は聞こえてこない。八百屋や魚屋が静かに東京の街から消えていって風景が変わるかシャッターが閉まったままとなる。8月末に日本経済新聞の報道によると現市場の再建案だと少なくとも15年から20年後に完成すると言う。そこまで生き残る八百屋と魚屋は何軒あるのだろうか。当然彼らを得意先とする市場の仲卸の衰退がとなる。残るのはスーパーと密着した仲卸が仕入れの代行をする業者として生き残ることになるだろう。市場に入った荷物は封を開けることなく出て行くので汚染は生じない。
 うなぎの産地偽装でわかったことは伝票だけの流通がかなりあると言うことである。8月にまた水産仲卸が店をたたんで従業員が他の仲卸に移ったと言う。この傾向がこれからの主流となる。
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新撰組隊士 中島登

2010年09月01日 | 福神漬
新撰組隊士 中島登(なかじまのぼる)
都営浅草線高輪台付近にある日蓮衆本立寺に福神漬のキーマンである鶯亭金升さんの墓地捜しに伺ったところ、住職の曽祖父が新鮮組隊士で土方歳三と函館弁天台場で戦い,降伏したという。新撰組に入ったのが鳥羽伏見の戦い以後なので殆ど負け戦であったという。
ネットで調べると住職の先祖は中島登(なかじまのぼる)で静岡県浜松に墓があるという。予備知識もない突然の訪問なので詳しく尋ねる事もなく帰る事となった。福神漬の調査には色々な所に訪問するが現地に行って初めて解る事が多い。花香恭次郎を調べるために関係ないと思いつつ、場所と時代が近いので大原幽学記念館を訪問したら、下谷根岸に明治になって、大原幽学の思想を実践する道場があった。八石教会という。
 鶯亭金升の曽祖父がぺりー来航時アメリカ国書を受け取り、黒船に一番乗りして浦賀与力の中島三郎助が函館千代台陣屋で戦死したがそこに新撰組隊士だった中島登が土方と共にいた。偶然なのだろうか。鶯亭の長井家は明治30年代に新宿から荏原郡の寺であった本立寺に墓を移した。(出典鶯亭金升日記)この墓の移転の事情は住職の話によると都心にある墓を郊外に移す政策があったと言う。永井家は偶然本立寺を選んだと思われる。
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