年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

熊野川

2011年02月13日 | 宅老のグチ
熊野川
和歌山と三重の県境は熊野川(昔は新宮川)となる。紀勢線も新宮でJR中日本と西日本とに別れるという。新宮・尾鷲は雨の印象があると地元の人が言う。
 駅を降りて交番脇の踏切を渡り、見上げるとオークワというスーパーと思える建物が見えた。本屋に寄る。何も変わった品揃えなし。熊野速玉大社に徒歩で向う。オークワの先にアーケードの屋根が見えた。小雨の町をさけて商店街を歩く。人なし。昼なのに。熊野古道めぐり人で賑わうという表現が嘘と思えるくらい閑散としていた。境内を出ると佐藤春夫記念館がある。入る。切符を買うとき大石誠之助の本を売っていた。新宮は大石誠之助の町である。名誉市民である佐藤春夫も西村伊作も大石の影響を受けている。禄亭大石誠之助は鶯亭金升の情歌の仲間だった。幸徳秋水と大石誠之助を結んだのが団団珍聞の鶯亭だった。大石誠之助が大逆事件で処刑されたのが1月24日である。今年は100周期となる。地元の研究者でも鶯亭金升を(キョウテイキンショウ)と振り仮名してあった。
 100年前の新宮はバブルの町であった。熊野川上流から下ってくる木材資源等によって繁栄していた。また新宮は今では辺鄙な街だが明治の頃は海運の中継地でもあり、次の寄港地は東京や大阪であった。またアメリカに向う船もあったようで大石もアメリカに留学している。繁栄している町は下層民と裕福な人たちの対立を生じ、大石を犯罪者に仕立てた。大石誠之助の生誕地は熊野速玉大社から100m程しか離れていないのに訪れる人も無く石碑があるのみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵草紙屋2

2011年02月12日 | 築地市場にて
絵草紙屋 江戸の浮世絵ショップ 鈴木俊幸著
江戸時代には絵草紙屋は子供のための読み物だった。書物と対比される草紙は一過性の慰み物の扱いだった。江戸時代の書物とは神書・仏書・儒書・医書・または歌書等古典として価値に裏づけられて、宗教上・学問上または人生において価値があると認められたもの。さらにこれからもその価値が永く普遍であると認識されているものをさしている。これに対して草紙は浮世絵・草双紙(くさぞうし)(江戸時代の小説の一ジャンル。江戸特有の挿絵入り仮名書き小説で、寛文(かんぶん)末年(17世紀後半)ごろに刊行され始めた幼童向けの絵本である赤本を初めとして、黒本、青本、黄表紙、合巻(ごうかん)という順に出版された娯楽的読み物。)芝居関係の読み物・役者絵等がこれに属し、消耗品的な慰み物であった。なかなかイメージが出ないが今でもわずかに残る駄菓子屋の店頭の風景で食品の代わりに種々の読み物が店頭にあったと思われる。
 原胤昭の須田町の店は団団珍聞も販売していたようで絵草紙屋とも書店とも考えられる。また福神漬の証言者である鶯亭金升は貸本屋の草双紙を読み尽くし、父である長井昌言から与えられた『八犬伝』を熟読し、暗記していたという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵草紙屋

2011年02月10日 | 築地市場にて
絵草紙屋 江戸の浮世絵ショップ 鈴木俊幸著
福島事件の錦絵を作り、頒布した原胤昭はなぜ銀座から神田須田町へ移り、錦絵の販売店を開いたかなかなか解からなかった。明治の文献に数々出てくる絵草紙屋は日露戦争前後に東京から消えた。
 小新聞・雑本なども扱っていた絵草紙屋は江戸時代からの江戸の名産品として各地方に知られていた。明治になっても新しい文化を吸収し品揃え強化していたが印刷技術や写真の進歩によって、浮世絵・錦絵のように手間のかかる出版物は製造原価が高騰し、販売数量が減り、ますます販売価格が高くなって明治末期に消滅したという。

 漬物でも本物のぬか漬けも丁寧に漬け込めば原価が高くなるため、価格高騰を回避するため、管理の簡単な調味料で味付けた浅漬け向ってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治は歴史となるのだろうか?

2011年02月10日 | 築地市場にて
今夜は雪になりそうです。『降る雪や明治は遠くなりにけり』と中村草田男が昭和6年に読んだ俳句で、いつ明治は歴史になるのだろうか?
福神漬・べったら漬・キムチを調べる過程で明治はそろそろ歴史になるのだろうか。あと少しで大正100年となる。今年は大逆事件100年となる。色々なこの件で関連する本が出されるだろう。鶯亭金升の関連で和歌山県新宮市の大石誠之助がいる。鶯亭金升は直接的には政治と離れているのに参加していた雑誌の影響で幸徳秋水と同僚でもあった。
 新宮では歴史には冤罪と書かれていても大石誠之助は完全に復権はなされていないという。戦前大逆事件を起こした町の出身として色々差別されたという。名もない地方の人達の歴史が残るには親類や地元の人達の言い伝えしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火山の噴火

2011年02月09日 | 築地市場にて
宮崎県は口蹄疫で牛、鳥インフルエンザで鶏がそして火山の噴火で野菜が灰の下敷きとなっている。
昨年口蹄疫の出た宮崎県南部は畜産の大産地でその排せつ物を利用した有機栽培で漬物大根の産地でもある。大型野菜は常に連作による障害を防ぐ必要がある。客土(きゃくど・耕地の土壌改良のため、他から性質の異なる土を運んで混入すること)をしたり連作障害を防ぐが通常は土壌分析とか土壌殺菌を国内では行っていた。しかし費用がかかるし、中国から安い野菜が入っている現状では産地のこだわりが頼りとなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人適正雇用講習会

2011年02月08日 | 築地市場にて
春節で中国人観光客が多数築地市場内にウロウロしている。ちょっと前は不法就労の中国人で築地市場は占拠されていたが今では殆ど見かけず、12カ国110人が働いているという。いわゆる研修生も存在するだろうから実際の数は激減である。築地のコンビニ等で働いて語学を研修する学生の方が多い気がする。
今年の講習会も終わって築地警察の人の挨拶からも随分築地で働く外国人が減ったことを実感する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場の停電が終わって

2011年02月07日 | 築地市場にて
多分日本の都市の中で一番IT化の進んでいないのが築地市場でないのだろうか。年2回の長時間停電でもクレームも無く、仕事が進む。昨年暮れの雨による4時間停電でも天災扱いで、まだ仕事が少し遅れただけで終わってしまった。
 地デジの宣伝が飛び交う頃でも、ターレーが走り回る市場の中でまだ大八車が活躍し時には天秤棒で配達する光景も見る。築地は江戸時代の商取引風景を今でも見ることが出来る。近代的な高層ビルの下で大きな声を出してセリする風景は外国人観光客に喜ばれる。
そんな市場の中ではOAを利用したところが忙しく、昔ながらのところが暇になってゆき静かな淘汰がまだ進んでゆく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春節なので

2011年02月06日 | 築地市場にて
春節で中国から人が日本に帰ってきて新年会となる。昔の日本のように毎年給与が上がって物価も上昇するので人は競って消費する。与信が過大に見積もられ、税制の不備がますます消費を拡大させている。昔の日本の景気の良い時代を思い出される。
 年取って人が集まれば昔話となる。鹿児島県知覧にある特攻記念館の話となって、22歳で戦死した人の思い出話となる。記念館にある写真と親族から分けてもらった出撃前の写真が同じであった。分けた人の話だと若くして死んだ人を語り継ぐことが遺族の役目という。
 福神漬など単なる漬物なのに明治の文献に出てくるので何かあるのかと調べているうち、名もない人の話が多数出てくる。また戊辰戦争で敗北した人たちの伝わらぬ意思が福神漬の中に入っているように思えてきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川島監獄からの脱獄

2011年02月05日 | 福神漬
今中央区石川島造船所後に高層マンションが建っているがそこには江戸時代から明治にかけて監獄があった。明治17年3月26日の夜に高田事件の関連で逮捕され、国事犯となった赤井景韶(かげあき)が石川島監獄を脱獄した。この時は同じ石川島には国事犯だった福島事件被告人と原胤昭が同時期に入獄していた。福島事件の被告人も脱走を計画していたようで、大潮の引き潮の時、石川島と築地とか鉄砲州との間にある隅田川が浅くなる事利用して脱走する計画を立てていた。しかし赤井に一歩先んじられた後、警備が厳しくなり、政治犯は仙台にある刑務所に移転されたという。
 脱走した赤井は逃走に利用した人力車車夫を口止めのため殺害した。この事は政府関係者には極度の警戒を招いたという。自由民権運動を弾圧するため、事件をねつ造し捜査した所、赤井の所から政府転覆計画の書が偶然見つかった。赤井の恨みをかうと思われる官僚は彼が明治17年9月静岡県で逮捕されるまで暗殺を心配していたという。
 福神漬の命名がなされた頃と想像される時期は自由民権運動を弾圧するほうも命がけだったと思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判報道

2011年02月04日 | 福神漬
明治16年夏の東京高等法院で福島事件の裁判が始まると東京で発行されている大新聞や小新聞までも高等法院での公判記録を新聞に連載記事として載せていた。さらに地方新聞にも公判記録が連載されていた。
加波山事件始末記-歩いて書いた民権激派の記録田村幸一郎著によると徳富蘆花の熊本でも公判記録を載せた新聞があったようである。

『思出の記』徳富蘆花
『かの福島事件が天下を騒がした時期など、その裁判筆記の出た新聞が来ると、引き裂くように争い読んで、河野、愛澤、平島、花香、田母野諸士の艱難苦心を思っては熱き涙のホロホロ頬を潤す事を覚えている。今そこに飛んで行って、その縄目の食い入る手に接吻し、警官の剣の鞘尻に突かれたその背中を撫でもしたく、暴官憲の非道、その非道をかばう政府のやつらの髭ずらを思う存分殴って蹴って踏みにじってやりたく、その雪中を素足で引きずり回した事を聞いては、僕らもいつかはあの志士の跡を踏んでゆくこともあるかも知れぬ、その時の覚悟を試してみようと、ある雪夜に素足になって外に立ったこともあった。』
この様な文章を書かせる位地方の方にも裁判報道がなされていた。当時の報道姿勢は反明治政府だったので記事の内容も自由民権運動支持となっている。この後明治政府は自由民権運動の事件を公安秩序の裁判から、強盗とかの刑事事件の裁判にするように変化している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加波山事件資料集 稲葉誠太郎編

2011年02月03日 | 福神漬
福神漬の命名時期を明治17年後半から18年頃だとすると、自由民権運動が過激となり、勢いを弱める時期と重なる。明治17年5月群馬事件、9月加波山事件そしてその1ヶ月後秩父事件が起こった。飯田・名古屋・静岡の各地で活動計画が相談され、挙兵・暗殺計画が発覚し自由党員は逮捕された。加波山事件後、対外国問題(朝鮮情勢)を理由として自由党は解散し、自由民権運動は表面上静かとなった。
 加波山事件は福島県民が多数参加していたので自由民権運動の流れと見ることが普通であるが加波山山頂に掲げた『自由魁』『政府転覆』の旗があり、檄文にも革命を意識した言葉があったという。これは明治14年3月にロシア皇帝を暗殺したロシアアナーキストの思想の影響があるという。加波山の檄文は明治維新の中で『尊王』という思想から脱出する考えの始まりと思える。加波山事件は日本で始めての革命思想を持った行動で、その後に起こった秩父事件と共に明治政府指導者に大きな影響を与えた。明治18年頃には下火となった自由民権運動にも官憲の密偵が多数存在して、官費を浪費していると報道されていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懇親会・親睦会

2011年02月02日 | 福神漬
辞書では(参加した人々が互いに知り合い、また、親しみを深めるための会。飲食を伴うことが多い。)となっているが明治10年代は意味が違っていた。
懇親会・親睦会という言葉が新聞紙上を賑わしていたのが明治10年代だった。言論弾圧をする政府に対して懇親会とか運動会を開催して民権活動家が資金稼ぎをしていた。今では考えられないが一般市民が金を払って観劇するように政治演説を聞いていた。今の市民が自由意思でただ単に政治家の演説を聞くため金を払うのだろうか。政治に金がかかるとは言え明治の初めの政治は形が整っていないので今では考えられない事が行われていた。憲政史上で第一回衆議員議員選挙程クリーンな選挙は無く、また第二回選挙は一番酷い選挙と言われていた。
 また運動会は今と違って、屋内で行わない政治演説会を運動会と言っていたようである。言い換えで今とまったく違った意味をしている。
 この懇親会にも官憲の密偵が潜り込んでいて演説の内容を聞き、報告していた。政治風刺漫画『団団珍聞』の周囲にも官憲の密偵が存在していたと想像される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒さでパソコンの電源が落ちる

2011年02月01日 | 築地市場にて
1年で一番寒い寒中になって早朝パソコンの電源が落ちる現象が出ている。8時過ぎて暖房が入ると正常稼働している。どうやらネットで調べると暖房してからパソコンを起動した方が良いとなっていた。節分を過ぎれば季節は春となるのだがこの気温ではとても春とは言えない。
 露天商に近い築地市場は外気温と同じで場内は氷点下である。パソコンは日本では一日中電源を入れていない所があるはずで人知れず悩んでいる人があるだろう。高温はノートパソコンで経験するが低温はあまり聞いたことがない。
 富士通のカタログでは適正稼働温度は10度から35度であるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする