早めの築地市場の閉鎖番組を見ていた。何か大型物販店の閉店のように感じた。そもそも築地市場の移転問題はすでに30年以上の前からあって、ようやく豊洲へ移転することになった。少なくとも2回以上の都議会都知事選挙の争点にもなった。多分後世の築地市場移転史には2020年開催の東京オリンピックが契機として移転したと書かれるかもしれないが実際は異なる。ただ東京オリンピック招致と言うことで豊洲移転反対の声が消えた。
TVの放映で築地市場が関東大震災によって日本橋から移転したと言っていたが築地市場が開場したのは昭和10年のことで関東大震災から10年以上の年月が経っている。このことはいまだに関東大震災を契機として日本橋魚河岸京橋大根河岸が築地に移転したということがおかしいと声をあげる歴史家がいないことが寂しい。関東大震災時、社会主義者・朝鮮人が虐殺されたこと知っているがこれは震災被災者の不安感情で起きた不幸な事件だったと処理されている。
関東大震災がおきて間もなく日本橋魚河岸が治安維持者による市場閉鎖は実に手際よく、当時の東京市幹部たちの中では大規模な災害が日本橋魚河岸で起きたなら、日本橋での魚河岸再建を阻止する合意があったと推測した方が当時の日本橋魚河岸関係者の証言からくみ取れる。これが板舟権問題を引き起こし築地へ移転する決定まで時間がかかった。
10数年前築地市場の水産部で土曜の夜火事があった。翌日曜日朝現場を見て、当分火災のあったところは営業できないと見たが、日曜午前中で火災の検分が終わり、翌月曜日にロウソクの明かりでほとんどの被災店舗で営業していた。勿論助け合いの精神である。震災時この助け合い精神を阻止する治安維持の権力の行使があって日本橋魚河岸の日本橋での再建が阻止された。この点を省略して震災がきっかけで日本橋魚河岸が築地に移転したということは魚河岸移転の歴史を省略しすぎる。一国の食文化の中心地を動かすには50年の時間がかかるという。明治10年代末期、欧化政策で銀座の端にある魚河岸・大根河岸の不衛生な施設の移転計画が始まった。日本橋魚河岸、京橋大根河岸の移転も50年ほどかかっている。築地市場の豊洲移転問題は50年の歴史はないがほぼそれに近い歴史がある。