岩波日本歴史14巻 近世5 平川伸著から
嘉永4年の株仲間の再興の経緯が詳しく書かれている。この経緯で老中の阿部と勘定奉行と南町奉行遠山景元 ・元南町奉行の筒井政憲のやり取りが書かれている。天保の改革で閑職に左遷された遠山と筒井が水野忠邦の失脚で復権途中だった。市中の業務を熟知している町奉行としては株仲間の再興は必要と考えていたようだ。しかし天保の改革以前の物価の高騰は無視できないものがあった。
遠山景元 が閑職から弘化二年南町奉行に復帰するとすぐに、株仲間の再興を老中阿部に言上した。しかし阿部は復活の条件が整っていないと同意しなかった。筒井政憲が弘化三年諸問屋株式の復活を上伸した。隅田川の氾濫による災害の復旧費用を賄うという理由だった。老中の阿部から却下された筒井の上申書を遠山が町年寄からの願い書を加えて再提出したが再度阿部に却下された。阿部は水野忠邦の質素倹約路線を継承していたから、株仲間の復活で風俗が再度乱れることを懸念していたという。
嘉永三年九月老中の阿部は勘定奉行に問屋再興の検討を出した。この情報は筒井政憲にも直ちに伝わっただろう。この嘉永三年は浦賀で戸田伊豆守氏栄、砲術下曽根金三郎、手付役内田弥太郎がいた。嘉永三年十月末に江戸市中で小伝馬町の牢獄から放火で解放され逃亡していた高野長英が町奉行の与力たちに惨殺された。(鶴見俊輔氏の見解)当時の市中の噂話を集めていた藤岡屋日記で高野を逃亡を手伝っていた内田弥太郎が処罰されないのが不思議と当時から世間は疑っていた。いわゆる蛮社の獄という無実の罪で投獄された高野長英が放火し逃亡したことが遠山と筒井の間で内田の処罰を秘密裏の検討があったと思われる。浦賀奉行の戸田氏栄は内田弥太郎の必要性を遠山・筒井に説いたと思われる。この功績で戸田伊豆守氏栄三男が女子しかいなかった二番町の長井家の養子となった(長井昌言・出典鶯亭金升日記)。筒井は三番町に住んでいた。また下曽根金三郎は筒井の息子であった。
嘉永4年の株仲間再興の陰で内田弥太郎の処分の動向が消えてしまった気がする。処分を免れた内田弥太郎は学問の弟子である関流和算家東千葉万歳村の花香安精のところにすでに養子かいるのに戸田氏栄5男を養子(花香恭次郎〉とした。自由民権運動福島事件の東京士族被告人花香恭次郎の誕生のいきさつだろう。
福島県立図書館の資料調査で困難な人物として花香恭次郎があった。資料が少なく、南町奉行(筒井政憲)火付盗賊改(長井家・文政年間は長井五右衛門昌純)関東取締役出役(組合村代表花香家)からは史料が出ない。
千葉のはずれの飯岡町は長井家の知行地であり、飯岡の助五郎は浦賀に近い横須賀市出身だった。