「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「もらい水」

2020年07月20日 | つれづれ噺

             

孫君たちのソフトボール大会がいよいよ佳境に入ったことを書いた。
この日を迎えるためには、およそ1か月前から週に1・2回の練習をしてきた。ジジとしては当然練習風景も見に行った。
ある練習日に、タオルとウチワだけを持ってノコノコ練習会場に行った。孫君はそんな様子を遠くからちゃんと見ていたのだろう。
「じいちゃん、オレの水を飲んでもいいよ、暑いから飲みんさい」と声をかけてくれた。その時初めて、飲み物も持たずに来たら、却ってこの子たちに心配をさせるのだと気付かされた。

その後は、試合はもちろん練習見学でも、飲み物は必ず余るほどにいっぱい持参している。
あの時はまさしく「もらい水」であった。座って見ているだけで汗が流れる日差し。孫君の言葉に甘えて喉を潤した。
「もらい水」で最もピンとくるのは「あさがおに釣瓶取られてもらい水」という、この季節を詠んだ名句がある。
弦を伸ばしたあさがおが、水汲み用の釣瓶に巻き付いている。弦を外すに忍びなくて、隣家に水をもらいに行ったという、なんとも日本人の心の豊かさを表すもので、思わず暑さを忘れさせる一コマである。

今や水とはもらうものではなく買うものである。そういえば、かれこれ10年前にヨーロッパ旅行をしたとき、行く先々のレストランで、食事前に出されるコップ一杯の水にさえ必ずお金を払ったのを思い出した。日本の生活習慣では考えられないことである。
公衆トイレやバスターミナルのトイレ使用も、一度に1ドル2ドル支払わされた。トイレの入り口に係員が配置されていた。

今は、水はペットボトルに入れられ、歴とした商品であり購入すべきものなのである。
我が家など、道路に面したアサガオの水やり用に蛇口が1本立ち上げてある。学校帰りの子どもたちが勝手に飲んでいたものだ。
ペットボトルで購入したものは、中身がなくなればペットボトルはゴミになる。これは、レジ袋の比ではない大量なプラゴミ排出である。
その昔、多くの従業員が働く工場には、至る所に冷水装置が置かれ、ペダルを踏むと冷たい水がおいしく飲めた。

プラゴミの排出を抑えようというのなら、至る所に「もらい水」できる装置を設置してはどうだろう。
 あさがおに釣瓶取られてもらい水 をしてきた日本人の心意気を今一度。やれ衛生問題だ、財源はどうするか、必ず反対意見は出るのだろうが。

コメント
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