昨日の豪雨で大きな土砂崩れの被害を受けながら、死者等を出さなかった村上市小岩内地区。
区長が、冷静な判断で、集落の全員をきちんと避難させていたのがよかったということを、各局で放送していた。
何でも、市から避難指示が出ていたので、消防団員を使って各戸を回らせ住民を地区の公民館に避難させたのだそうだ。
だが、公民館ではまだ危ないと感じて、さらに高台の家々に分散して避難させた。
その勘は正しかったようで、公民館には壊れた家の建物や無数の流木がぶつかっていたから、危なかったとのこと。
区長は、「過去に8・28水害のことがあったから」ということを言っていた。
8・28水害(はちてんにはち すいがい)とは、昭和42(1967) 年8月28日に起こった豪雨災害のこと。
豪雨によって、新潟県の下越地方から山形県西部にかけての広い範囲で河川の氾濫、土砂災害等が発生したのだった。
胎内川流域の胎内市(旧北蒲原郡中条町、黒川村)では、胎内川の氾濫や支流小河川の土石流により、あわせて死者・行方不明者42人、重軽傷者275人、住宅全半壊313棟、床上・床下浸水約6000棟という大きな被害を受けた。
その災害で亡くなった人たちを悼み、教訓としてその災害を忘れないために、今でも旧黒川村では8月28日に慰霊式を行っている。
私も、そちらに勤務していたときには、3年間この式に参加した。
県内の他市町村や山形県でも、計134人の死者・行方不明者が出るなど大きな被害を受けたから、この水害は羽越災害ともいわれている。
区長の言葉は、その過去の水害を教訓にして、早めの避難や命を守るための行動をとることができたのだということを意味している。
同様に、今回大きな被害を受けた関川村では、「大したもんじゃ祭」という大蛇の祭りを行うが、その祭りは羽越水害とのかかわりが大きい。
その水害では、村で死者・行方不明者34人など多くの犠牲者を出しており、惨事を忘れることなく次代へ引き継ぐため、8・28水害の数字を取って82.8mとなったということだ。
また、阿賀町の三川中学校では、合唱組曲「阿賀野川」が歌い継がれている。
その歌には、8・28水害のことが大きく扱われ、毎年生徒たちに歌われている。
私は、昭和42年当時小学5年生だったが、当日は1日中強い雨が降ったのを覚えている。
自分の住む集落には大きな被害はなかったが、それでも近くの坂道がみにくくえぐれてしまったことが印象深く残っている。
それから55年。
年輩の人間たちには、その水害の記憶が教訓となって、とった行動が犠牲者を多くしなかったことにつながったのだ。
それを思うと、命だけは助かって、よかったなあとしみじみと感じるものがある。
もちろん、これからの後片付け作業や、これからの住まいや暮らしのことを考えるととても大変なことも分かる。
でも、命にまさるものはないのだ。
命を守った過去の災害の記憶。
今回の災害のことも、記憶に残し、後世への教訓となってほしいとも思う。
区長が、冷静な判断で、集落の全員をきちんと避難させていたのがよかったということを、各局で放送していた。
何でも、市から避難指示が出ていたので、消防団員を使って各戸を回らせ住民を地区の公民館に避難させたのだそうだ。
だが、公民館ではまだ危ないと感じて、さらに高台の家々に分散して避難させた。
その勘は正しかったようで、公民館には壊れた家の建物や無数の流木がぶつかっていたから、危なかったとのこと。
区長は、「過去に8・28水害のことがあったから」ということを言っていた。
8・28水害(はちてんにはち すいがい)とは、昭和42(1967) 年8月28日に起こった豪雨災害のこと。
豪雨によって、新潟県の下越地方から山形県西部にかけての広い範囲で河川の氾濫、土砂災害等が発生したのだった。
胎内川流域の胎内市(旧北蒲原郡中条町、黒川村)では、胎内川の氾濫や支流小河川の土石流により、あわせて死者・行方不明者42人、重軽傷者275人、住宅全半壊313棟、床上・床下浸水約6000棟という大きな被害を受けた。
その災害で亡くなった人たちを悼み、教訓としてその災害を忘れないために、今でも旧黒川村では8月28日に慰霊式を行っている。
私も、そちらに勤務していたときには、3年間この式に参加した。
県内の他市町村や山形県でも、計134人の死者・行方不明者が出るなど大きな被害を受けたから、この水害は羽越災害ともいわれている。
区長の言葉は、その過去の水害を教訓にして、早めの避難や命を守るための行動をとることができたのだということを意味している。
同様に、今回大きな被害を受けた関川村では、「大したもんじゃ祭」という大蛇の祭りを行うが、その祭りは羽越水害とのかかわりが大きい。
その水害では、村で死者・行方不明者34人など多くの犠牲者を出しており、惨事を忘れることなく次代へ引き継ぐため、8・28水害の数字を取って82.8mとなったということだ。
また、阿賀町の三川中学校では、合唱組曲「阿賀野川」が歌い継がれている。
その歌には、8・28水害のことが大きく扱われ、毎年生徒たちに歌われている。
私は、昭和42年当時小学5年生だったが、当日は1日中強い雨が降ったのを覚えている。
自分の住む集落には大きな被害はなかったが、それでも近くの坂道がみにくくえぐれてしまったことが印象深く残っている。
それから55年。
年輩の人間たちには、その水害の記憶が教訓となって、とった行動が犠牲者を多くしなかったことにつながったのだ。
それを思うと、命だけは助かって、よかったなあとしみじみと感じるものがある。
もちろん、これからの後片付け作業や、これからの住まいや暮らしのことを考えるととても大変なことも分かる。
でも、命にまさるものはないのだ。
命を守った過去の災害の記憶。
今回の災害のことも、記憶に残し、後世への教訓となってほしいとも思う。