二月に65歳になった。
あれ?
そんなシチュエーションの歌があったぞ。
そうそう。
井上陽水の「人生が二度あれば」だ。
久々に聴いてみる。
1番の歌詞を追っていく。
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
仕事に追われ
このごろやっと ゆとりが出来た
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯吞みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
この歌が世に出たのは、1972年。
アルバム「断絶」のなかの1曲だった。
今から数えると、なんとちょうど50年も前の歌ではないか。
自分が若いときに聴いた歌なので、この歌を歌う若い世代の側にいるつもりでいた。
なのに、今はしっかり「歌われている」年代の65歳になってしまった。
あの当時この歌の歌詞を新しい感覚で聴いていたのに、今その年齢になって聴いてみると、「そんなじゃねーぞ!」と反発したくなる。
確かに、顔のシワは増えたかもしれないし、仕事に追われてはいなくなったが。
でも、湯呑みに写る自分の顔をじっと見て人生を振り返るには、まだ早過ぎるという感覚だ。
だけど、50年前の65歳って、こういう「完全な高齢者=老人」だったのだよなあ。
決して自己弁護しているわけではないが、50年後の今では、65歳は高齢者の仲間入りの年齢でしかなくて、完全な老人とは言い難い。
これが、時代の移り変わりというものか。
そして、この歌の2番では、64歳になる母のことが歌われている。
歌われるその母親像は、さらに昔を感じさせる。
子どもだけのために 年とった
つけもの石を 持ち上げている
「子どもだけのため」「つけもの石」
これが母のイメージだったということだ。
そして、さらに、
子どもを育て 家族のために 年老いた母
と、母の人生を憐れむように歌う。
ここには、世に出て働く母のイメージはない。
ひたすら家庭内でおさまる母だ。
今、若い人たちにこの歌を聴いてもらっても、きっと感じるものは少ないだろうなあ。
でも、あの頃は、この歌も、若者の心を代弁する歌だったのだが…。
この歌があったことを思い出し、改めて聴いてみて、時代が大きく変わっていることを改めて強く感じた私であった。
あれ?
そんなシチュエーションの歌があったぞ。
そうそう。
井上陽水の「人生が二度あれば」だ。
久々に聴いてみる。
1番の歌詞を追っていく。
父は今年二月で 六十五
顔のシワはふえて ゆくばかり
仕事に追われ
このごろやっと ゆとりが出来た
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯吞みに写る
自分の顔を じっと見ている
人生が二度あれば
この人生が二度あれば
この歌が世に出たのは、1972年。
アルバム「断絶」のなかの1曲だった。
今から数えると、なんとちょうど50年も前の歌ではないか。
自分が若いときに聴いた歌なので、この歌を歌う若い世代の側にいるつもりでいた。
なのに、今はしっかり「歌われている」年代の65歳になってしまった。
あの当時この歌の歌詞を新しい感覚で聴いていたのに、今その年齢になって聴いてみると、「そんなじゃねーぞ!」と反発したくなる。
確かに、顔のシワは増えたかもしれないし、仕事に追われてはいなくなったが。
でも、湯呑みに写る自分の顔をじっと見て人生を振り返るには、まだ早過ぎるという感覚だ。
だけど、50年前の65歳って、こういう「完全な高齢者=老人」だったのだよなあ。
決して自己弁護しているわけではないが、50年後の今では、65歳は高齢者の仲間入りの年齢でしかなくて、完全な老人とは言い難い。
これが、時代の移り変わりというものか。
そして、この歌の2番では、64歳になる母のことが歌われている。
歌われるその母親像は、さらに昔を感じさせる。
子どもだけのために 年とった
つけもの石を 持ち上げている
「子どもだけのため」「つけもの石」
これが母のイメージだったということだ。
そして、さらに、
子どもを育て 家族のために 年老いた母
と、母の人生を憐れむように歌う。
ここには、世に出て働く母のイメージはない。
ひたすら家庭内でおさまる母だ。
今、若い人たちにこの歌を聴いてもらっても、きっと感じるものは少ないだろうなあ。
でも、あの頃は、この歌も、若者の心を代弁する歌だったのだが…。
この歌があったことを思い出し、改めて聴いてみて、時代が大きく変わっていることを改めて強く感じた私であった。